NHK連続テレビ小説「まれ」。
うーむ。
現代を舞台にすると、なかなか、うまくいかないね・・・・・。
最近で成功したのは、「あまちゃん」くらいかな?
(だから、「まれ」にしても、「あまちゃん」を見習っているところがあるんだろうな)
一人の女性の現代社会における自立や成長を描く・・・・・となると、朝ドラという制約下において、やれることは限られてしまうわけで。
たとえば、職場でのいじめ、いびりは描けても、セクハラとかは難しくなる。
異性愛は当然OKだけど、不倫や浮気はNG。
もちろん、同性愛なんか無理なわけで。
その点、時代を明治、大正、昭和初期とすれば、時代の激動と絡めることが容易になる。
まして、当時の女性の置かれた状況は、現代から見れば、それだけでいろいろと制約があるわけ(過酷)でして。
自然と、障害が配置されていて、物語としては成り立ちやすい。
で、「まれ」。
なんか無理が見えるドラマだね・・・・。(強引に障害をつくっているように見えてしまう)
今週は、主人公・土屋太鳳さんが演じるところの「まれ」の弟・一徹が、実は友人の「みのり」と付き合っており、結婚したいと言い出すことからの大騒動。
どちらとも未成年。
しかも、一徹は、まだ高校生。(正式に結婚するのは、卒業後なのだろうが)
当然、周囲から反対される。
それに対して、主人公の「まれ」は、彼らを応援することを決意・・・・・・・。
まぁ、普通に考えれば、反対する方が、当たり前。
せいぜい、「両方共、二十歳を超えてから、考えたら?」とアドバイスするのが、普通でしょうね。
でも、二人共、今直ぐに結婚したい! と言い張る。
その理由が、「みのり」のお母さんが若いころ、子供を流産している。
そのことから、娘が「早く結婚して、子沢山で、大家族を築くぞ!」と決意したから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、その娘の話を聞いて、ドランクドラゴンの塚地さんが、娘の決意を知り、泣きながら結婚を認める。
うーむ。
旦那は、高校卒業したら、いきなりデイトレーダーになろうとしているんだよ?
そんな、海の物とも山の物ともつかない仕事に就くのに(しかも、高校卒業して、直ぐに! 証券会社や金融関係の仕事をしたことがないのはもちろん、社会経験なんか皆無なのに)、「子供が沢山欲しいから結婚したい!」なんて言う娘の結婚を認めるなんて。
収入ゼロ(ヘタすれば、マイナス)かもしれない可能性だってあるのに、子供だけは欲しい?
・・・・・・なんじゃそりゃ!?
今回のドラマは、週一回は泣き所をつくろうとして、もう、なんか、強引過ぎる。
子煩悩という設定の「まれ」のお父さんが、六年間、電話の一つも寄越さないで、東京で働いていた、とか。
その割には、妻の実母(妻は彼女のことは大嫌い)とは連絡を取り合っていた、とか。
「まれ」一家が住んでいるのは、かつて民宿を営んでいた建物。
そこに家主の桶作夫婦と一緒に住んでいるんだけど、実の息子が家族を引き連れて帰ってきて。
で、いきなり、ここでカフェを開くから、親父のやっている塩田つぶす、とか言い出す。
それに対して、「どこか空き家を借りたら?」という提案に対して、「それじゃ、金がかかる」。
うーむ。
そんなわけねーじゃん。
塩田潰して、新しい施設をつくるってなったら、どんだけ金がかかるんだよ。
駐車場にするにしても(それなりに金がかかるよ)、・・・・・・・流行る前から、流行ること前提で金を投資するって、・・・・・あんたねー。(どこにあるの、そんな金?)
観光客目当てのカフェをつくるのなら、むしろ、塩田を残して、それを目玉にする方が、妥当だろうに。
「そりゃ、リストラされた後に、仕事も見つからないわけだよ」という感じの息子が、どうしてカフェを諦めたかというと、クイズで負けたから・・・・。
まぁ、そういうコミカルな要素を入れるのも、良かろう。
でも、負けたら、清々しく、「もう一度、東京で、仕事を探してみる」とか言って、ハッピーエンド。
・・・・・・・おいおい、切羽詰まって、実家に戻ってきたんじゃないのかい? そんな程度の覚悟で、都会の生活に慣れた家族を引き連れて、実家で仕事をしようと思ってたの?(しかもカフェを経営した経験があるわけでもなく)
他にも、六角精児さんが、地元の職人をたぶらかすところも、なんだかなー。
そんな簡単に職人が引き抜かれるってことは、「まれ」が密かに恋している紺谷圭太のジイさんである紺谷弥太郎(漆職人の元締め)は、余程ひどい待遇で職人を雇っていたんだろうなぁ、と思ってしまうよ。
とにかく、毎週、お涙頂戴のシーンをつくろうとして、無理しているのが、このドラマ。
ストーリーの流れよりも、そこを求める人には、いいのかもしれないけど。
まぁ絵は素晴らしいんだけどね。
能登の四季を色鮮やかにとらえて、毎週出てくるお菓子(スイーツ)も瑞々しい。
出演者にしても、適材適所という感じ。
土屋太鳳さんも、かわいらしい。
ただ、出演者に涙を流させて、大声出し、バックで扇情的な音楽をバンバン流すという、「これでいいんだろ?」という製作者の意図が見え見えで、個人的には白けてしまうね・・・・・・。(「嫌なら見るな」というのなら、その通りではあるんだけど)
放映が始まった当初から、「オープニングが、恥ずいな」と思っていたんだけど、その印象のままのドラマね。
土屋太鳳さんが踊るシーンと、能登の風景、スイーツの製作過程をコントラスト豊かに描いていて、「綺麗」ではある。
でも、土屋太鳳さんが着ている服が白のワンピース。
で、その姿で、能登の田舎を、周辺の住民の人に手を振りながら走り回り、最終的には彼女の元に人々が集まってくる・・・・・。
いかにもNHKの朝ドラ的、健康美人(美少女)で、素直な性格、誰からも愛されています! という感じが、オープニングから臭っていたけど、実際のドラマも、ここまでとは。
うーむ。
これが好きな人も一定層はいるのだろうから、間違ってはいないのだろうけど。
それにしても、脚本が穴だらけで、大甘だな・・・・・。
まぁ、パティシエを目指す物語なのだから、大甘でもいいのかもしれないが。(オッサン大好き、ダジャレオチ)
2015年5月30日土曜日
2015年5月28日木曜日
原作:久住昌之 画:土山しげる「漫画版 野武士のグルメ」
なんとなく手にした「野武士のグルメ」。
まぁ、簡単に言うと、コラで大人気の「孤独のグルメ」なんですが。(原作者も同じだしね)
不思議なマンガです。(「孤独」も「野武士」も、どちらとも)
大げさな事件もなく、グルメマンガでありながら、出てくるのは、普通の食事ばかり。
「なんてこった!」という大どんでん返しなオチもなく、「人生のちょっとした出来事を切り取りました」という感じ。
で、ミソとしては、「野武士のグルメ」というタイトルになっているけど、実は「野武士のグルメ」となっていない。
(「孤独のグルメ」はタイトル通り、主人公は、いつも一人でした)
主人公の香住武は、長く勤めた会社を定年退職したばかり。
どうやら、あまり出世はしなかった模様。
でも、ちゃんと結婚して、子供も自立している(ようだ)。健康には不安はないし、持ち家も構えている(借家かもしれないが、まぁ、定年後も家賃を気にする必要がないようだ)。
贅沢できるほどのお金はないけど、定年後も働かなくてはいけないこともなく、ふらっと思い付きで外食が出来るくらいの余裕はある。
そんな切迫感皆無の悠々自適な生活を送る彼ではあるけれども、・・・・・と言うよりは、悠々自適な生活を送る彼だからこそ、少々、物足りなさを感じる。
で、「野武士のように、荒々しく飯を食いたい!」という願望が生まれるのですが・・・・。
「野武士」と言えば、本来、無職。
仕官がかなわず、日々、食うや食わずが当たり前。
どうしたって、生活に余裕のある主人公が、野武士になれるわけもなく。
いくつかの短編で構成されたマンガですが、その殆どにおいて、主人公は野武士のように豪快に飯を喰らいたい! と思っても、そうはいかない現実を突きつけられます。
結局、この「野武士」っていうのは、主人公の若かりし頃の姿なんだよね。
(野武士が出てこないで、過去の回想で終わることもあるけど、それにしても「過去」つまりは、「若かりし頃」について語っているんだよね)
今はもう失ってしまった、あの当時の若々しさを、「まだ持っていると思いたい!」「もう一度感じたい!」という願いが、破綻して終わる。
破綻という表現は少々大げさですが・・・・。
でも、「あぁ、野武士のようにはいかないなぁ」(もう若くないな~)という微妙なペーソスが、仰々しくはなく、ほんわかに描かれているところが、この本の魅力なのかな。
漫画版 野武士のグルメ | ||||
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2015年5月27日水曜日
「現代小説クロニクル(1975~1979)」
以前、「戦後短篇小説再発見」というシリーズがあって(まだ売っていると思いますが)、普段手にしないような作家の作品に触れられて、大変面白かったです。
こんなタイプが、また出ないかな? と思っていたら、「現代小説クロニクル」というシリーズを見つけて、読んでみました。
この巻に関しては、半分くらい読んだことがあるんですが、しかし、どれも面白かったので、それは気にならなったのですが、値段が二千円近い。
文庫にしては、ちょっと高いですな。
で、肝心の作品の感想ですが・・・・・、冒頭の中上健次が、やっぱり圧倒的です。
作品を、純文学と大衆小説(通俗小説、エンターテイメント小説)で分類するなんて、ナンセンスだけど、「岬」を読むと、やっぱり「純文学だね~」と感じてしまう。
複雑な血縁関係について、まったく分かり易く解説する気がないものね。
時折、ちょっとした回想シーンが挿入されるんだけど、それも、同じような内容ばっかりでね。
繰り返し語られるんだけど、切り口が変わるとか、前とは違った表現が使われるとか、そういう読者へのサービスとか、変わったことをしてやろうという気負いとかないんだよ。
でも、複雑な係累にしても、印象的なエピソードにしても、何度も何度も語られることで、「血の宿命」(陳腐な表現)というものを、読者までもが感じてしまうんだよね。
これが意図したものなのか、偶然なのか。
いずれにせよ、他人に真似できるものではなく、天才的と言うしかない。
久しぶりに「枯木灘」が読みたくなるが・・・・・、アレを読み通すのは、骨でね~。
他には、「僕って何」も面白かった。
最初に読んだのが十代だから、もう二十年前か・・・・・。
若い頃、三田誠広さんは、よく読んでいいたんだけど、やっぱ、これが一番かな。
学園紛争を舞台にして、未成熟な主人公が、学生運動には何かあるのではないかと期待をして近づく。
理論武装した学生たちと出会い、「彼らは何かを持っているのではないか?」という期待を抱く。
が、結局は、彼らも狭い組織の論理で動いているに過ぎず、幻想に過ぎなかったと失望していく過程が、今読んでも鮮やかです。
他は短編ばかり。
中には、(僕の)肌に合わない作品もありますが、そういう出会いが出来るのも、アンソロジーだからねー。それは、それで意味があります。
現代小説クロニクル 1975~1979 (講談社文芸文庫) | ||||
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2015年5月26日火曜日
ニール・ブロムカンプ監督「チャッピー」の感想
「チャッピー」見てきました。
異様な映画でした。
こういう看板を見ていたので、「ベイマックスみたいな、ほのぼの映画かな?」と思ってました。
(■「ベイマックス」を見て、ソツがないねーと感心しきり)
「心を持ったロボットと人間の、心あたたまる交流」という、日本ならド定番のお話を予想していたのですが・・・・・・。
心あたたまるシーンなんか、皆無だったよ。
以下、ネタバレ。
先ず、登場人物に、まったく感情移入ができないんだよ。
チャッピーの生みの親にしても、マッドサイエンティストならぬ、マッドエンジニアだし。
チャッピーがギャングに奪われた時点で、警察に連絡しろよ・・・・・。
なんで連絡しなかったのかというと、勝手にロボットへAIをインストールしたことを咎められることを恐れたからなのだろう。・・・・・結局、利己的。
その同僚のライバルも、警察に納入させようとしているロボットに、クラスター爆弾を装備させるようなおバカ。
もちろん、チャッピーを保護下に置いたギャングにしても、いい人なんかいるはずもなく。
唯一、チャッピーにとって母親となったギャングのヨランディが、ちょっとだけ、いい人だったけど。
(彼女は彼女で、後数日で殺されるというのに、えらくのんきね・・・・)
ただ、製作者としての主眼が、「チャッピーに共感を持たせたい」ということなのだろうから、敢えて、登場人物は癖のある人をそろえたんだろうな・・・・。
で、このチャッピーが、中盤までは、とにかくかわいそうで。
図体こそは、成人男性と同じくらいだけど、頭脳は生まれたばかりのお子様。
なのに、方々から、いじめられまくる。(異質な存在だから)
しまいにゃ、火をつけられて、腕を切り落とされたりする。
「ロボットは機械だ、心などないと言う人もいるけれども、実際には、心のない人間だっているじゃないか!」という流れか? と思ったら、途中からチャッピーがグレちゃって。
自分の命の為とは言え、犯罪にも加担するようになるし。
(ロボットに心を持たせたら、良くなるとは限らないじゃん? というのは、真っ当な考えかもしれませんが)
どこ行こうとしている、この映画? と不安になったけど、チャッピーの死が間近に迫ってきて、「あぁ、最終的には、人工知能が死を逍遥として受け入れる(悟りを手に入れる)」という荘厳なシーンで終わるのか? と思っていたら、彼をつくってくれた人(創造主)が銃で打たれる。
創造主を助けるか、自分を助けるかの二者択一となり、チャッピーは彼を選ぶ・・・・・。
「ロボットの自己犠牲パターンか。ターミネーター2だな」
と思ったら、最終的には、チャッピーも助かる。
後、ついでに、母親となってくれたギャングの女も助かる。
こう書くと、ありがちな大団円なんだけど、ギャングの女にしてもチャッピーの創造主にしても、ロボットとして生まれ変わるんだよ。(意識を移植)
「なんだこの、ハッピーエンドでも、バッドエンドでもない、もやもやした終わりは。いいのか、これで?」
そもそも、創造主に関しては、急いで病院に連れて行ったら、助かったような・・・・・。
(まぁチャッピーは賢いと言ってもロボット。だから、肉体は交換可能なものだと思っている。彼を助ける為に病院という選択肢は浮かばず、意識を移植してしまえばいいじゃん! という考えになるは当然かもしれないが)
なんか、「どう解釈したものか?」と悩むようなラストでした。
創造主やチャッピーにとっての母を、ロボットして蘇らせるというのは、つまり、「永遠の命」を与えるということ。
この、「永遠の命」を与えるってのは、本来、神にしか許されていない行為なのでは?
チャッピーというのは、劇中では、「黒い羊」ではあるけど、特別な存在であると言われている。これは、彼が「神」、ないし「神の子」であると示唆しているのか?
でも、創造主(神)を、創造されたものが蘇らせる(新しいステージに引き上げる)という、なんだ、この歪んだ構造は。
この意味するものって、なんなのかな?
そんな複雑に考えないで、この映画って、チャッピーが一人前になる物語とするべきなのか?
子供が成長して、親を凌駕することを示すために、最終的には、肉体をつくってくれた創造主(父)と、精神をつくってくれた母に、恩返しをした、というだけなのかも。
いずれにせよ、物語の「お約束」を破ろうという意欲に満ちた作品でした。
(それが成功しているかどうかは、見た人に依ると思いますが)
CHAPPiE 1/6スケール ABS&PVC&POM製 塗装済み可動フィギュア | ||||
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2015年5月25日月曜日
0120-951-909 男性募集
田舎町に住んでいるのですが、そこで発見したポスター。
ちょっと探してみたら、町中に、三枚発見。もう剥がされたもの、見つけてないものもあるでしょうから、けっこう頑張っている御様子。
この電話番号で、検索をかけますと、
■0120-951-909(google 検索結果が表示されます。)
やっぱり、
そもそもツッコミどころが満載で、社名がないんだよね。
もしかして、これが社名?
うーむ。意味が分からん。
まぁ先方の事情を想像するに、いろんなサイトで、いろんな名前を使っている。
だから、電話を受けた際に、先方から社名を言うことが出来ないから、敢えて書いてないのだろうなぁ・・・・。
募集条件。
迷惑メールに、よくあるパターン。
「逆援助交際をしてみませんか?」「女性起業家が、割り切りのできる大人の男性を探しています」というヤツ。
電話して、登録をすると、「登録料がかかります」「紹介料がかかります」「セレブな女性を紹介する上で、保証金が必要です」と言って、お金をとられるパターンでしょうね。
ちょっとだけ感心した(?)のが、この文言。
これを入れることで、剥がし難くしているんでしょう。
ネットではお約束で、使い古された内容なのですが、それが、現実世界に下りてきたところが、「おぉ、ネットが染み出ている!」と驚きです。(押井守監督「イノセンス」にて、草薙素子が降臨した感じ・・・・・・ではないな)
しかし、どんな人が貼っているんだろう?
うちのような田舎に、本部があるのかな?
なんか、考え難い。
アウトソーシング? ネットで募集して、一枚100円とかで貼らせている、とか。(ちゃんと貼ったかどうかは、写真を送ってもらう)
なんとなく思ったのは、もしかしたら、メールで引っかかった人が、「これが最初の仕事」と言われて、貼っているんじゃないか? と。
ネットが飽和状態(なかなかカモが見つからない)で、ネットに疎い層(中高年)を狙い打ちにしようとしているのかなー。
ただ、普通に考えれば、仕事の募集に応じて、お金をとられるなんて思わないから、簡単に電話しちゃう人もいるのか?
しかし、この手のやり方って、内職商法と同じなわけで、古い手を言えば、古い手。
それが、ネットの普及で、掲示板とかメールを使った出会い系詐欺になったんだけども、また現実に戻ってきているんですな。
うーん、不毛な輪廻転生、永劫回帰。
2015年5月20日水曜日
文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」外伝の感想
ポッドキャストで配信されている文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」の外伝を聞き終えて。
本編の感想。
■文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」本編の感想
いまいち、僕の中で、はっきりとした像とならないのが、「キラキラ系」というお言葉。
「意識高い系」というのは、意識は高いけど(やる気はあるけど)、口だけ、努力が空回りしている、または努力していない・・・・・ということなんだと思う。
でも、「キラキラ系」というのは、(プロ雀士の)勝間和代さんではないよね?(そもそも、カツマーも、よく分からないけど)
ニュアンスからすると、努力しているけど、外見だけ繕っている、ということ?
本編では、代表的な例としては、キラキラ広報を挙げていた。
■「キラキラ広報は駆逐すべき」という議論がおもしろいw
会社や業務を広報するのではなく、「自分自身が広告塔になっている人」ということですかね?
この「キラキラ系」を、ライフクルーによって批判したり、評価したりと微妙に違っていて、・・・・・よく分からん。
そういうタイプが、身近にいないからな~。
それは、さて置き。
面白かったのは、女性と男性の物差しについて。
女性の場合は自らが望んだ道(専業主婦でも、バリキャリでも)で成功すればOK。
けっこう、いろんな人生の形がある。
でも、男性の場合は、意外とないよね、というお話。
もちろん、この社会においては、まだまだ女性の方が弱い立場ではあるんだけれども。
でも、女性の社会進出が認められるようになった結果として、旧来の形もあれば新しい形もある。(また、今時は、バリバリ働きながら、ちゃんとした伴侶も得て、子供もばっちり育てます! という女性もいる)
過渡期だからこその、ある意味では豊穣な生き方が存在する。
でも、男の場合は、専業主夫というのは、やっぱり、そうそう有り得ない。(そもそも専業主婦が難しくなっている昨今、専業主夫は、まして)
荻上チキさんかな?
「女性を解放するというのは、男性を解放するのと同じ」と言っていたような気がするけど。
「女性らしさ」というものが無くすということは、つまりは「男性らしさ」(例えば「男が家で家事をやるなんて、おかしい!」てな考え方)というものからの解放でもあるんだねー。
とは言っても、(陳腐かもしれないけれども)男性は尺度がしっかりしている。(または既存の尺度が有効に存在している)
でも、女性の方は、いまいちはっきりしないよね、という指摘も。
そこから、キラキラ系というものが生まれてくるのかな?
(勝手なイメージとしては、Facebookで「いいね」を集めることを基準にする生き方?)
で、「キラキラ系(笑)」という面がありつつも、この手は、自分勝手に人生を切り開いていくポジティブを持ち合わせている。
ある意味、安心。
それよりも困るのは、「モヤモヤ女子」。
積極的になれない。
でも、もう、そんなことは言ってられないよね。
(ネガティブなり、後ろ向きでは、この社会を渡っていくのは難しい)
または、そういう人をも巻き込んでいくことが、必要だよ。
という感じで、今回は、まとまりました。
本編でも思ったことだけど、なるほど、ネガティブは金持ちの道楽になりつつあるのね・・・・・。
本編の感想。
■文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」本編の感想
いまいち、僕の中で、はっきりとした像とならないのが、「キラキラ系」というお言葉。
「意識高い系」というのは、意識は高いけど(やる気はあるけど)、口だけ、努力が空回りしている、または努力していない・・・・・ということなんだと思う。
でも、「キラキラ系」というのは、(プロ雀士の)勝間和代さんではないよね?(そもそも、カツマーも、よく分からないけど)
ニュアンスからすると、努力しているけど、外見だけ繕っている、ということ?
本編では、代表的な例としては、キラキラ広報を挙げていた。
■「キラキラ広報は駆逐すべき」という議論がおもしろいw
会社や業務を広報するのではなく、「自分自身が広告塔になっている人」ということですかね?
この「キラキラ系」を、ライフクルーによって批判したり、評価したりと微妙に違っていて、・・・・・よく分からん。
そういうタイプが、身近にいないからな~。
それは、さて置き。
面白かったのは、女性と男性の物差しについて。
女性の場合は自らが望んだ道(専業主婦でも、バリキャリでも)で成功すればOK。
けっこう、いろんな人生の形がある。
でも、男性の場合は、意外とないよね、というお話。
もちろん、この社会においては、まだまだ女性の方が弱い立場ではあるんだけれども。
でも、女性の社会進出が認められるようになった結果として、旧来の形もあれば新しい形もある。(また、今時は、バリバリ働きながら、ちゃんとした伴侶も得て、子供もばっちり育てます! という女性もいる)
過渡期だからこその、ある意味では豊穣な生き方が存在する。
でも、男の場合は、専業主夫というのは、やっぱり、そうそう有り得ない。(そもそも専業主婦が難しくなっている昨今、専業主夫は、まして)
荻上チキさんかな?
「女性を解放するというのは、男性を解放するのと同じ」と言っていたような気がするけど。
「女性らしさ」というものが無くすということは、つまりは「男性らしさ」(例えば「男が家で家事をやるなんて、おかしい!」てな考え方)というものからの解放でもあるんだねー。
とは言っても、(陳腐かもしれないけれども)男性は尺度がしっかりしている。(または既存の尺度が有効に存在している)
でも、女性の方は、いまいちはっきりしないよね、という指摘も。
そこから、キラキラ系というものが生まれてくるのかな?
(勝手なイメージとしては、Facebookで「いいね」を集めることを基準にする生き方?)
で、「キラキラ系(笑)」という面がありつつも、この手は、自分勝手に人生を切り開いていくポジティブを持ち合わせている。
ある意味、安心。
それよりも困るのは、「モヤモヤ女子」。
積極的になれない。
でも、もう、そんなことは言ってられないよね。
(ネガティブなり、後ろ向きでは、この社会を渡っていくのは難しい)
または、そういう人をも巻き込んでいくことが、必要だよ。
という感じで、今回は、まとまりました。
本編でも思ったことだけど、なるほど、ネガティブは金持ちの道楽になりつつあるのね・・・・・。
2015年5月19日火曜日
新川直司「四月は君の嘘 11」の感想
最終巻「四月は君の嘘」。
アニメも録画して見ておりました。
正直なところ、アニメの最終回間際が、ひどく、せわしないと感じて、「マンガ(原作)とは違うのかな?」と思ってました。
が、ようやく単行本化したマンガを読んだのですが・・・・・、アニメはマンガそのまんま。
原作を尊重した結果として、あぁなったのね。
ふーむ。
もうちょっと連載を伸ばすのかな? という予感がありましたが、けっこう、あっさり終わりましたね。
(かをりが亡くなるのは仕方ないにしても、傷心を引きずったままの第二部高校編や青年編があるのかな? と、ちょっと思ってた)
いろんな理由があって連載を引き伸ばし、結果、「最後はアレだったね」というマンガも多いので、ほどよい終わりだったと思います。(それでも、相座凪のエピソードは、連載を伸ばそうとした結果のようにも感じますが)
ただ、最後のネタばらしが・・・・・・。
僕は、てっきり、ヒロインの宮園かをりは、転校生という設定だと思ってた。
中学一年から同じ学校に通っているのに、三年になって、突然知り合うって、ちょいっと無理があるよね。
「もう自分に残された時間は短い」と覚悟しているのが、宮園かをりの行動原理なわけで。
すると、どうしても「学校には、ほとんど来ていない(かなり、あぶない病状)」という設定にする必要がある。
だから、最後の手紙での、「ほとんど中学に行けなかったな」という告白につながるのは分かる。
でも、三年になって顔見知りになり、それから、突然学校に来なくなった「かをり」に対して、登場人物たちは、あまりにも情報収集がお粗末だな・・・・。
一、二年で彼女と同じクラスに所属していた生徒に聞けば、ほとんど登校出来ていない過去を知るのは、容易。
とすれば、かなりの病気を患っているということは、直ぐに推測できる訳でして。
まして、有馬公生は、かをりに惚れているっていうのに、彼女のことを、まったく知ろうともしないって、あんたねー。
まぁ、物語を盛り上げる為に仕方ないとは思いつつも、「かをりの病状が悪化して、専門病院の近くの中学校に転校してきたら、そこに憧れていた有馬公生がいた」という設定の方が、無難な気がするけど・・・・・・。
もう一つ納得できなったのは、主人公・有馬公生の日常。
母が死んだのは、いいとしよう。(と言うか、物語の根幹)
でも、「父」は、どうした?
確か、船乗りという設定で、有馬公生が「放任主義ですから」みたいなことを述べていたはずだが・・・・・・、おいおい。
母親が死んでショックを受けている(未成年の)息子を放おっておいて、海外で仕事って。
うーむ。
あまりにも無責任。
せめて、主人公が高校生というのであれば、「仕方ねーか」とも思えるけど。
中学生じゃねー。そりゃ、ちょっと無理がない?
(語られないだけで、頻繁に家に帰ってきているのかもしれないが)
いっそ、離婚しているという設定にしてしまうことも可能だったろうけど、すると、「母親が死んで、中学生が一人で暮らしている」というのでは、それは現実としては、ないわけで。
だから、父親はいることにしないといけない、けれども、主人公・有馬公生の孤独を際立たせる為には、存在感を極力消さなくてはいけない。(「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」でも、父親は、基本、影が薄かったね)
このジレンマの結果として、外(外国)に出たまま帰ってこないという設定になったのだろうが・・・・・・。
普通に考えたら、傷心の息子を、そこまで放任するというのは、なにか特別な理由があるのではないかと勘ぐってしまうよね。(子供が憎いとか、父は父で妻を亡くした傷を負っているとか)
まぁ、物語を盛り上げる、かつシンプルにする為の「嘘」というのは、分かるけどね。
ちょいっと気になってしまいました。
まぁそういう穴なんて、見つけようと思えば、いくらだって見つかるものです。
そこらへんは、フィクションですから、と多少割り切らないと。
むしろ、一巻を読み直してみたら、最終巻を読んだから分かる伏線が、しっかりと張ってあります。
連載の当初から、最終回を見据えて、いたんだなーと感心。
物語が短命で終わったり、冗長になりがちなマンガとしては、綺麗に終わっているのは見事。
実写にし易い内容だとは思うけど・・・・・・、さて、どうかな?
■新川直司「四月は君の嘘」を、1巻から5巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘」を、6巻から9巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘(10)」の感想
アニメも録画して見ておりました。
正直なところ、アニメの最終回間際が、ひどく、せわしないと感じて、「マンガ(原作)とは違うのかな?」と思ってました。
が、ようやく単行本化したマンガを読んだのですが・・・・・、アニメはマンガそのまんま。
原作を尊重した結果として、あぁなったのね。
ふーむ。
もうちょっと連載を伸ばすのかな? という予感がありましたが、けっこう、あっさり終わりましたね。
(かをりが亡くなるのは仕方ないにしても、傷心を引きずったままの第二部高校編や青年編があるのかな? と、ちょっと思ってた)
いろんな理由があって連載を引き伸ばし、結果、「最後はアレだったね」というマンガも多いので、ほどよい終わりだったと思います。(それでも、相座凪のエピソードは、連載を伸ばそうとした結果のようにも感じますが)
ただ、最後のネタばらしが・・・・・・。
僕は、てっきり、ヒロインの宮園かをりは、転校生という設定だと思ってた。
中学一年から同じ学校に通っているのに、三年になって、突然知り合うって、ちょいっと無理があるよね。
「もう自分に残された時間は短い」と覚悟しているのが、宮園かをりの行動原理なわけで。
すると、どうしても「学校には、ほとんど来ていない(かなり、あぶない病状)」という設定にする必要がある。
だから、最後の手紙での、「ほとんど中学に行けなかったな」という告白につながるのは分かる。
でも、三年になって顔見知りになり、それから、突然学校に来なくなった「かをり」に対して、登場人物たちは、あまりにも情報収集がお粗末だな・・・・。
一、二年で彼女と同じクラスに所属していた生徒に聞けば、ほとんど登校出来ていない過去を知るのは、容易。
とすれば、かなりの病気を患っているということは、直ぐに推測できる訳でして。
まして、有馬公生は、かをりに惚れているっていうのに、彼女のことを、まったく知ろうともしないって、あんたねー。
まぁ、物語を盛り上げる為に仕方ないとは思いつつも、「かをりの病状が悪化して、専門病院の近くの中学校に転校してきたら、そこに憧れていた有馬公生がいた」という設定の方が、無難な気がするけど・・・・・・。
もう一つ納得できなったのは、主人公・有馬公生の日常。
母が死んだのは、いいとしよう。(と言うか、物語の根幹)
でも、「父」は、どうした?
確か、船乗りという設定で、有馬公生が「放任主義ですから」みたいなことを述べていたはずだが・・・・・・、おいおい。
母親が死んでショックを受けている(未成年の)息子を放おっておいて、海外で仕事って。
うーむ。
あまりにも無責任。
せめて、主人公が高校生というのであれば、「仕方ねーか」とも思えるけど。
中学生じゃねー。そりゃ、ちょっと無理がない?
(語られないだけで、頻繁に家に帰ってきているのかもしれないが)
いっそ、離婚しているという設定にしてしまうことも可能だったろうけど、すると、「母親が死んで、中学生が一人で暮らしている」というのでは、それは現実としては、ないわけで。
だから、父親はいることにしないといけない、けれども、主人公・有馬公生の孤独を際立たせる為には、存在感を極力消さなくてはいけない。(「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」でも、父親は、基本、影が薄かったね)
このジレンマの結果として、外(外国)に出たまま帰ってこないという設定になったのだろうが・・・・・・。
普通に考えたら、傷心の息子を、そこまで放任するというのは、なにか特別な理由があるのではないかと勘ぐってしまうよね。(子供が憎いとか、父は父で妻を亡くした傷を負っているとか)
まぁ、物語を盛り上げる、かつシンプルにする為の「嘘」というのは、分かるけどね。
ちょいっと気になってしまいました。
まぁそういう穴なんて、見つけようと思えば、いくらだって見つかるものです。
そこらへんは、フィクションですから、と多少割り切らないと。
むしろ、一巻を読み直してみたら、最終巻を読んだから分かる伏線が、しっかりと張ってあります。
連載の当初から、最終回を見据えて、いたんだなーと感心。
物語が短命で終わったり、冗長になりがちなマンガとしては、綺麗に終わっているのは見事。
実写にし易い内容だとは思うけど・・・・・・、さて、どうかな?
■新川直司「四月は君の嘘」を、1巻から5巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘」を、6巻から9巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘(10)」の感想
DVD付き 四月は君の嘘(11)限定版<完> (講談社キャラクターズA) | ||||
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2015年5月17日日曜日
えりちん「描かないマンガ家」の感想
以前から気になっていた、「描かないマンガ家」を読みました。
基本としてギャグ漫画なんだけど、普通にストーリー漫画として通用するレベルの絵(最終的には、ストーリー漫画になっちゃうしね)。
最近の漫画は、レベルが高くて、大変ね・・・・・。
主人公の渡部は漫画家になる夢を持ってはいるけど、まったく努力する気がない、つまりはタイトル通りの「描かないマンガ家」。
こいつが自堕落なだけでなく、口だけは立派で、同じ専門学校に通っている学生に、偉そうに文句を言い、説教をする。
評論家が政治家から、批評家が創作者から、コンサルタントが現場の人間から嫌われるのは、手を汚さないから。
大上段から理想論を振りかざすのは、まぁ、簡単だからねー。
「言うことだけは立派」、でも、「努力はしていない」という落差が、この漫画のギャグの基本。
最初の方は、これが繰り返され、時には、「言うことだけは立派」だから、悩んでいる人に勇気を与えたり、問題解決に導いたりします。
が、この黄金パターンを延々と繰り返して安泰でいられるのは、こち亀クラスの大御所でなければ、出来ないわけでして。
渡部と、その仲間が生産性のない日々を過ごすのとは対称的に、専門学校の同級生は、着々に技術を吸収して、いつかはプロになってみせると努力をする。
この堕落組はブサイクな男性ばかりで、努力組は小綺麗な女性が中心。
この対比って、現実を反映しているのかね~?
最近は、普通の学校でも、女性の方が頑張ると聞くけど。
漫画の専門学校も、そんな感じなのかな?
で、女性たちが努力し、失敗し、挫折を味わいながらも、徐々にプロとしての道を歩んでいく・・・・というところで、ストーリーが進展していきます。(渡部は、基本、何もしないから、彼ではストーリーを進めようがないよね)
さて、まぁ、そんな、努力家で、小奇麗な女性が、どうしてか、ダメ人間の渡部に惚れるんだよね。
「そんなのねーよ」なんだけど・・・・・・、まぁマンガだから。(なにも持っていない主人公が、ただただ誠意だけでもって、女達に惚れられるというのは、マンガのお約束ですから)
数人の女性の中で、当初は、明らかに長妻がヒロイン。
でも、彼女が成長すると(漫画家としての道を歩み出すと)、渡部とは絡ませづらくなってしまったのか、ヒロインとしての役割は、徐々にフェードアウト。
で、枝野カンナという超売れっ子漫画家の登場。
彼女が出てきて、ギャグ色は薄れていきます。
代わりに、徐々にストーリー色が強くなってきて、長妻は長妻のストーリー、渡部は渡部のストーリーという感じに。
この枝野カンナというキャラは、登場した当初と、最後では、まったく立ち位置が変わってしまう、複雑なキャラ。(ある意味では、この物語の変化を象徴しているとも言えるかな?)
一貫性がないんじゃない? と思ってしまいたくなるくらいに、面倒な性格しているね。
彼女にとっての渡部は、自らの支配下においておきたい存在。
彼が成長する必要はない。あんなダメ人間を愛せるのだから、圧倒的な母性の持ち主かと思えるけど、むしろ逆で、圧倒的な父性の存在と見るべきなんだろうな。
でも、最終的には、漫画家ではない自分(ありのままの~♪)を認めてくれる男性と出会い、漫画を捨てて、専業主婦となることを選ぶ。
男性的な攻撃性は薄れて、かつては完全に否定していた渡部に対して、あたたかい声援を送るようになっている。
ここらへんの変化は、安易すぎるのではないかな? と思わないでも。(ご都合というほどではないけど)
枝野カンナが漫画を嫌っていた&憎んでいたようには見えなかったからね。
そして、初登場から、渡部に対して好意を持っていた山井(渡部が彼女の特殊な趣味について非難することなく擁護したのが縁。やはり、ありのままの~♪)。かわいらしくて、少年誌でヒット作を描くくらいの才能のある女性。
そんな彼女に支えられて(愛!)、渡部はどうにか漫画家として飯を食えるように。
他の主要キャラも、漫画家として生きており、さらに伴侶もいて、幸せそうに描かれており、大団円!
・・・・・・・なんだけれども。
古谷実氏のマンガで、いつも「納得がいかん!」と思うのは、女性によって主人公が安易に救済されちゃう傾向があること。
(「ヒミズ」は違うけど、映画では、そうなっちゃっていたね)
「描かないマンガ家」も、結局、女の無償の愛よって、男が救われる(努力もしているけど)。
・・・・「なんだか良く分からんけど、いろんな女に惚れられる」というのと同じで、「女の無償の愛によって救済される」っていうのも、きっと、男性の願望なんだろーねー。
前半はお気楽ギャグマンガで、途中で転落のストーリー漫画になり、最終的にはホッコリ落ち着くところに落ち着いた、という感じでした。
描かないマンガ家 1 (ジェッツコミックス) | ||||
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2015年5月16日土曜日
北野武監督「龍三と七人の子分たち」の感想
北野武監督の「龍三と七人の子分たち」を見てきました。
まぁ、別に感想らしい感想はないです。
「昔は、オレも~」というジイさんが沢山出てきて、今時の若い「悪」を退治するという物語。
が、物語は二の次。
老人への敬意もなく、変に格好良く見せることもなく、悲壮感もなく。
ビートたけし流の、しょーもないコントの連続。
でも、藤竜也さんや近藤正臣さん、中尾彬さんといった達者な役者たちが、真面目に不真面目をやるので、楽しく見てられます。
「みんな〜やってるか!」「座頭市」というよりは、「菊次郎の夏」という感じ。(多少、アクションはありますが)
「アウトレイジ」のように身構えて見る必要なく、気軽に見れる作品です。
大御所になっても、まだまだ、こういう作品つくれるのは、不思議な余裕があるよな・・・・。
映画「龍三と七人の子分たち」オリジナルサウンドトラック | ||||
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2015年5月15日金曜日
文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」本編の感想
■文化系トークラジオ Life_ 2015_04_26「ポジティブの現在/ネガティブの未来」 アーカイブ
昔はネガティブが主流だったけど、今って、ポジティブが主流ね~、なんで?
そして、今のポジティブはどこに向かっているの?
てな感じで、今回のライフは進んでいった感じ。
僕はネガティブ人間だと思っていますが、「ネガティブって、バブルの産物」だと放送の中では言われており、「あぁ、そうなのか・・・・・」とオッサン苦笑い。
以前の「超絶!ポエム化社会」で、「スローガンが声高に語られるのは、現実が辛いから」という指摘があったけど、ネット上で「ポジティブ♪ ポジティブ♪」が重宝されるのは、現代日本が下降線(撤退戦)に入り込んでいるからなのかもしれないのね・・・・・。ふーむ。
そういう中で、さて、ポジティブとネガティブ。
現実においては、ポジティブの方が有効であることは分かり切っているけど(ネガティブなんて社会のゴミだ!)、「意識高い系」「キラキラ系」などと揶揄されるように、内実の伴わない、格好・外見だけのポジティブは意味がない。
またポジティブの強要からの洗脳となっては、カルトであったり、やる気の搾取といった問題を生み出しかねない。
そういうものを回避してのポジティブとは? ・・・・・なんだけど、徐々に明らかになっていくのは、他人からの「こうしなさい!」ではなく、内なる自己からの内発的な「やる気」が大事。
それを生み出すには、現実を知ることから始めるべき。
そこから、「さぁ、この現実と、どう対峙していきましょう!」という流れが、健全なのでは? という感じで、まとまったけど・・・・・・。
重箱の隅をつつけば、洗脳と善導は、よく似た響きでして。
「厳しい(日本の)現実を見せる」というのは、それはそれで、新興宗教が「これを買わない(信じない)と、地獄に落ちますよ」と脅しているのと、紙一重のような・・・・・・・。
「そこまで言い出したら、キリがない。なにも出来ない。やらない言い訳に過ぎない」と言われると、「その通りです」と頭を下げるしかないです。
僕なんかからすると、浮上するのも、堕ちるのも、当人の自由じゃん。ほっといたら? などと、ネガティブを通り越して、アナーキーに思ってしまいます。
本放送の前の予告編にて、かつての毒舌家(切り込み隊長とか)も、最近は丸くなったよね? というお話しがありました。
それを成長と見るか、環境の変化と見るか。
個人的には、「年取ったんだよね」と思ってしまいます。
村上春樹氏も、ある時期から「コミットメント」という言葉を使うようになりました。
それもあってか、最近は政治的な発言も多いです。
・・・・・・まぁ、年を取るって、そういうことなんだろうなぁ。
部下が出来たり、ある程度影響力のあるお立場に立ったりすると、そういう考えになるの自然なのかな? と思います。(簡単に言うと、説教臭くなるということ)
しかし、僕も、いい年なんだが、相変わらずネガティブなまま。
成長も変化もないな・・・・・。
昔はネガティブが主流だったけど、今って、ポジティブが主流ね~、なんで?
そして、今のポジティブはどこに向かっているの?
てな感じで、今回のライフは進んでいった感じ。
僕はネガティブ人間だと思っていますが、「ネガティブって、バブルの産物」だと放送の中では言われており、「あぁ、そうなのか・・・・・」とオッサン苦笑い。
以前の「超絶!ポエム化社会」で、「スローガンが声高に語られるのは、現実が辛いから」という指摘があったけど、ネット上で「ポジティブ♪ ポジティブ♪」が重宝されるのは、現代日本が下降線(撤退戦)に入り込んでいるからなのかもしれないのね・・・・・。ふーむ。
そういう中で、さて、ポジティブとネガティブ。
現実においては、ポジティブの方が有効であることは分かり切っているけど(ネガティブなんて社会のゴミだ!)、「意識高い系」「キラキラ系」などと揶揄されるように、内実の伴わない、格好・外見だけのポジティブは意味がない。
またポジティブの強要からの洗脳となっては、カルトであったり、やる気の搾取といった問題を生み出しかねない。
そういうものを回避してのポジティブとは? ・・・・・なんだけど、徐々に明らかになっていくのは、他人からの「こうしなさい!」ではなく、内なる自己からの内発的な「やる気」が大事。
それを生み出すには、現実を知ることから始めるべき。
そこから、「さぁ、この現実と、どう対峙していきましょう!」という流れが、健全なのでは? という感じで、まとまったけど・・・・・・。
重箱の隅をつつけば、洗脳と善導は、よく似た響きでして。
「厳しい(日本の)現実を見せる」というのは、それはそれで、新興宗教が「これを買わない(信じない)と、地獄に落ちますよ」と脅しているのと、紙一重のような・・・・・・・。
「そこまで言い出したら、キリがない。なにも出来ない。やらない言い訳に過ぎない」と言われると、「その通りです」と頭を下げるしかないです。
僕なんかからすると、浮上するのも、堕ちるのも、当人の自由じゃん。ほっといたら? などと、ネガティブを通り越して、アナーキーに思ってしまいます。
本放送の前の予告編にて、かつての毒舌家(切り込み隊長とか)も、最近は丸くなったよね? というお話しがありました。
それを成長と見るか、環境の変化と見るか。
個人的には、「年取ったんだよね」と思ってしまいます。
村上春樹氏も、ある時期から「コミットメント」という言葉を使うようになりました。
それもあってか、最近は政治的な発言も多いです。
・・・・・・まぁ、年を取るって、そういうことなんだろうなぁ。
部下が出来たり、ある程度影響力のあるお立場に立ったりすると、そういう考えになるの自然なのかな? と思います。(簡単に言うと、説教臭くなるということ)
しかし、僕も、いい年なんだが、相変わらずネガティブなまま。
成長も変化もないな・・・・・。
2015年5月11日月曜日
松本大洋「ピンポン」を久しぶりに読んで
久しぶりに、松本大洋先生の「ピンポン」を読んだけど。
やっぱ、あついね~。
最近、アニメ化もされたけど、そっちも好評だったみたい。
実写もマズマズだったし、・・・・・・ここまで成功する例も、珍しいです。
10数年振りに読み直して、大体のストーリーは覚えているんだけど、それでも、ペコが強敵を倒していく場面は、胸躍る。
単純に強いヤツを倒すのではなくて、活人剣とでも言うべきなのか、ペコが勝つことで、彼らは救済されるんだよね。
最大のライバルであり、親友であるスマイル。
彼は、自らの人生をシニカル捉えている。望んだ人生ではないと、絶望している。
それは、自らの卓球の才能に対しても、同じスタンス。
望んだ才能ではない。
この才能を超える実力を持った人間を欲している。
(言うなれば、救世主の降臨を待っているんだよね)
全国二連覇を成し遂げているドラゴン。
いつも、いつか自分は負けてしまうのではないかと恐れを抱いている。
決して、卓球を愛している訳ではない。
中国からの留学生チャイナ。
一流の才能はあるが、(中国の)全国選抜に選ばれるほどではない。
日本に流れてきて、腐っている。
ペコを敵視するアクマ。
スマイルと一緒で、小さいころからペコと卓球をしてきた。
人一倍の努力家。
アクマは自らの才能がないことは分かり切っている。
だから、才能あふれるペコに憧れる。
でも、ペコは、大人になるに連れて、口先だけの自堕落な人間になっていく。
なので、アクマはペコへの憧れを心の底に持ちつつ、憎しみをも抱いてしまう。
現実のスポーツ選手を見てもそうだけど、ヒーローであり続けることは難しい。
(余計なお世話だけど、清○さん、これからどうするんだろう・・・・・)
ヒーローであるということは、人々の(勝手な)思いを背負って生きていくということ。
(キリスト教的に言えば、十字架を背負って生きていくようなもの)
一旦は、そこから逃げ出したペコだが、再起の為に肉体をいじめ抜くことを決意。
そして、一度は完敗したチャイナに、勝利をする。
この復活はアクマを喜ばせただけではなく、自らを踏み台にして成長する人間がいること自体に、日本に来た意義があったチャイナに思わせる。
また、卓球を恐れていたドラゴンに対しては、卓球を楽しみながら戦い、かつ彼を凌駕して見せることで、救いを提示する。
かつては、ペコに勝たないように遠慮していたスマイル。
だが、ペコは彼の理想通りの姿となって、復活。
膝を怪我しているにもかかわらず、それすらハンデとはならない程の圧倒的な強さで登場。
しかも、スマイルのお師匠さんである小泉(バタフライジョー)は、膝を怪我した親友との戦いにおいて温情をかけてしまい、選手生命を断ったという過去がある人。
ペコ対スマイルの決勝って、この再現であるのだけれども、しかし、弟子であるスマイルは、手加減をする必要なく、ペコに敗れる。
このことによって、バタフライジョーも救っているわけなんだよね。
そして、最終話において、人生を冷めた目で見ていたスマイルは、ご飯を師匠と一緒に食べるくらいの社交性を身につけている。
さらに卓球の選手生活には別れを告げ、師匠と同じように教職に就こうとしている。
彼自身が望んだ人生を歩み始めていることを示唆している。
でも、明るい話ばかりじゃなくてね。
この最終話では、ドラゴンも登場するけど、高校時代は化け物だった彼も、今は、今一歩な成績であることも明かされている。
ここらへんの苦さの残る大団円も、いいですね~
ピンポン(1) (ビッグコミックス) | ||||
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2015年5月9日土曜日
「ハリー・ポッターと死の秘宝」読了
ようやく読み終わった「ハリー・ポッターと死の秘宝」。
シリーズ最終巻です。
ラストなんで、ストーリーが小気味良く進みます。
が、グリンデルバルドって、前からいた?
なんか突然出てきたような・・・・・。
最終巻で、これまでの壮大な伏線が回収されているけど、なんか、この七巻で、唐突に出てきた話も多いような気が・・・・・・。
今までは、どうしても、ホグワーツ城に場面が限定されていて、ちょっと窮屈な感じがあったけど、今回は世界(イギリス限定か?)を放浪して歩くので、以前までとは、テイストが、ちょっと違うので、新鮮味がありました。
でも、いつも通り、ハリー、ロン、ハーマイオニーの仲良し三人なんだけど、いつも通り仲違い。
分霊箱の呪いのせいとは分かりつつ、おいおい、ロン、去っていくのかよ? と思ったのは、僕だけ?
だって、ハーマイオニーにべた惚れで、しかもハリーに嫉妬しているんだろう?
二人だけ残して行くなんて・・・・・。
で、原作では、そんなに美人という設定ではないけど、映画でのハーマイオニーは、エマ・ワトソンが演じているわけでして。
そうすると、小説を読んでいても、どうしても物凄い美人を想像してしまう。
あんだけの美人と二人だけの旅をしていて、しかも献身的に尽くしてくれるのだから、間違いが起こらないわけないだろうが、ハリー17才って設定だぜ?
まぁ、児童でも読める本なのだから、無駄にリアルにする必要はないか・・・・・。
でも、その後の、剣を見つけてしまうエピソードだけど。
あっさり見つけたな。
とか、なんとか、かんとか、ツッコミ始めるとキリがないところもあるけど、まぁ、面白かったです。
以前の感想。
■「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」読了
■「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」読了
■「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」読了
■「ハリー・ポッターと謎のプリンス」読了
ハリー・ポッターと死の秘宝 上下巻set (携帯版) (ハリー・ポッターシリーズ) | ||||
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