泣くな
かつて、鳴り物入りで掲載されたオリジナルの「聲の形」(短編)は、「マガジン」を購読していたので、リアルタイムで読みました。
少年誌でありながら、「障害者」への「いじめ」を扱った点は、「英断だなー」とは思ったけど、作品としては、「まぁ佳作かな」といった程度の感想でした。
その後、購読を止めてしまったので、改めて連載された長編バージョンの方は、読む機会がなく現在に至る。
で、「あの京アニがアニメ化する」と聞いたときは、「英断だなー」とは思ったけど、まぁそれ以下でもそれ以上でもなく。正直、大して期待はしていませんでした。
そして、2016年。
「シン・ゴジラ」の波が去る前に、新海誠監督「君の名は。」ブームが到来、まだまだヒット街道驀進中ですが、その監督から、
という評価をもらっているのは、さて、社交辞令なのか、本心なのか。
もう「君の名は。」を見て、アニメ欲(?)みたいなものが満たされてしまって、「別になぁ・・・・・」と思っていたけど、前評判は上々。
「大してすることもないし」という消極的な理由で、休日に映画館に行ってみましたが、中高生だらけで。
席も後ろの方は埋まっていて、「あぁ、失敗した」と思いつつ、スクリーンを見上げるような席を確保。
で、いろんな映画の予告が流れ始めるんだけども、後ろの中高生たちが、クチャクチャしゃべっているんですよ。
両隣が空いているのが、せめてもの救いだったのですが、上映直前になってカップル登場。しかも、隣は男が座りやがる。
で、この男が上映中に、声が聞こえるくらいに泣き出すわけだ。
「おいおい、彼女連れで、男がアニメで泣くんじゃねーよ」と思ったもの、当の私も涙が出ておりました・・・・・・。
現代日本の「罪と罰」
「京都アニメーション」(通称「京アニ」)と言えば、「涼宮ハルヒ」や「らき☆すた」「けいおん!」とか、萌えアニメをつくらせたら天下一品というのが、僕のイメージです。
そういうアニオタに刺さりやすい作品に長けている会社が、「障害者」への「いじめ」を扱った作品を映像化するというのは、どういうもんなんだ?
下手をすれば、安易な感動作にしてしまって、いわゆる「感動ポルノ」批判も有り得るわけで、・・・・・・・しかし、開始数分、特に、聴覚障害者である西宮が転校してきて、最初は受け入れようとしたものの、徐々にクラスのお荷物扱いにされてしまうという短いながらも、リアルで残酷なシーケンスを見せられて、圧倒。「これは本気でつくっているんだ」と納得。
もう、そのころには館内も静まり返っていました。
この映画では、「障害者」への「いじめ」、そして、少年の「贖罪」の過程が描かれています。
多くの日本人は、小中と学校生活を送ってきています。
身近に障害者がいなかったとしても、異質なるものを排除しようと動いたことや、または実際に排除されたという経験は、誰にもあると思います。(「日本」の「学校生活」に限った話ではありませんが)
仮に、そのような行為とは無縁であり、また、うまく立ち回って排除される立場に追いやられることはなかったとしても、個人の行為や集団の動きを見たことはあるのでは?
さて、その時、制止することはできたでしょうか? まぁ、時には、したかもしれません。
しかし、全部は無理でしょう。
傍観を決め込んだことだって、あるのではないでしょうか?
もし、自分は完璧だと自信を持って言える人がいたら、どうぞ石を投げなさい・・・・・。
映画においては、加害者と被害者、そして傍観者も登場し、痛々しい言葉の応酬となり、さらには暴力となってぶつかり合います。
キャラクターの造形、特に女性側は、京アニらしく非常に可愛らしく描かれています。
楽器でも持たせてバンドなり吹奏楽なりやらせたら、人気が出てフィギュアもバンバン売れそうな感じです。
なんだけれども、多くの日本人の奥底に眠っている罪悪感やらトラウマを引きずり出すような、非常に残酷な物語になっているんだよね。
現代日本版「罪と罰」は、萌えアニメの様相で表現されるのか・・・・。(首相がマリオに扮するくらいの「現代日本」だからね)
※ただしイケメンに限る
この「萌えアニメ」の器を利用したというのが、良いんだか悪いんだか。
可愛らしく描かれた西宮が、劇中において初の発声シーンには、衝撃を受けました。
通常のアニメ文法で描かれているキャラクターに、聴覚障害者特有の声をかぶせることの違和感。
この違和感は、これまでアニメ作品が取り扱ってこなかったことの裏返しだよね。
また、植野という美少女から出た、言うなれば「障害者などいなくなってしまえ」という発言は、相模原で障害者施設殺傷事件が起きてしまった現在では、原作者・製作者が、どこまで意図したのかは分かりませんが、見た目と発言のギャップは、物語に独特のテイストを加味することになっていました。
が!
「※ただしイケメンに限る」でして、原作に沿っているとは言え、ヒロイン西宮。劇場版ということで、萌えの匠たちが技量のあらん限りで可愛らしく描いており、そりゃ、「物語なんてそんなもんだよ。アニメに限った話じゃないでしょ?」とは分かりつつも、結局、美少女だから救われてんじゃんと、まぁ、いやらしいことを思わんでも。
女キャラは、とにかく美人。母親たちまで、美魔女という豪華な布陣。
まぁ、原作が、そうなんだから、仕方ないんだろうけど。
で、物語の根幹に関わるツッコミとしては、(ネタバレでなんですが)・・・・・・・いじめの被害者が、加害者に惚れるって・・・・そりゃ、あまりにも、ファンタジーだよね。
ファンタジーだから、ラストに「救い」もあるわけで、それを一概に否定するのも無粋だとは思うものの・・・・。
いじめの被害者・加害者を同性にして、最終的に友情が成立するという流れの方がリアルではあるんだろうけど、そうすると物語のダイナミズムに欠けるのかな~。
女性監督
こまかいツッコミを入れると、そりゃ、なんだってキリがないのですが(主人公の自転車が変わったのは、なんか説明があった?)、障害者であり「いじめ」を経験して自己肯定感が持てないヒロインと、その「いじめ」の加害者であり、また被害者にもなる主人公も、その罪と罰で自己肯定感を持てず、その二人の心理の行き来を細やかに描けているのは(もちろん、原作の力もあるのだろうが)、素晴らしかったです。
何度となく描かれる、水への飛び込みシーン。
googleで、「
夢判断 飛び込み」と検索すると、「新しい世界への飛躍」といった感じの言葉が並んでいます。
まぁ、そんな当たるも八卦当たらぬも八卦な夢判断を援用しなくても、絵のイメージからしても、地上から水への飛び込みというのは、大変動きのあるものになります。
で、実際、ダイブシーンを契機にして、物語が動くことが多い。
(ネタバレですが)その最たるものは、当然、ヒロインの投身自殺。
これは、オープニングの主人公の自殺シーンと重なるわけでして、どちらも花火が打ち上がっていることから、製作者の意図的な「対」と言っていいでしょう。
主人公の自殺は未遂に終わり、直ぐに母親によって「身勝手」と批判されます。
その代わりに、主人公は、ヒロインの自殺の身代わりとなる。
ドストエフスキーの「罪と罰」において、主人公のラスコーリニコフは、裁判では真の意味で自らの行為を理解できず、流刑地の日々において神の存在を認識して、ようやく「罪」を自覚します。
「聲の形」においては、この自殺の身代わりによって、他人の向き合ってこなかった自らの「罪」に気付く。(それは西宮の闇に気が付いてやれなかった、ということでもあるのかな?)
そういった、細やかな流れというのは女性監督ならではなのかな~。(女性だから繊細な心理描写という、ありがちなコメント・・・・・)
で、今作の監督・山田尚子さん。wiki見たら、まだ31才だって。
こりゃ、まだまだ活躍が期待できますね。
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業界では珍しくない女性アニメ監督 - Togetterまとめ
アニメにおいても、ガラスの天井は既に破られているようだけれども、宮崎駿監督筆頭の大御所、庵野秀明・細田守、そして、「君の名は。」で一気にメジャー化した新海誠監督等の中堅など、やっぱり、まだまだ男性ばっかりなのかな~というイメージが個人的にはあります。
が、今作を見ていると、新しい時代が来ようとしているのかね~。(さて、ゲーム業界で、女性クリエイターが前面に出て来るのは、いつごろなのかな)