面白くなくても、当時の風景や若いころの俳優さんを見ているだけで、けっこう楽しめますから。
そんなわけで鑑賞した今村昌平監督「復讐するは我にあり」。
実在の西口彰事件(wiki)をもとに、佐木隆三さんが執筆した本が原作になります。
主人公の榎津巌は、緒形拳さん。
最初見た感じでは、「軽い」。
凶悪犯なのに、なんだ、この軽さ?
しかも、個人的には、晩年のイメージが色濃くて、あまり悪人に見えない。
でも、ストーリーが進んでいくうちに、あぁなるほどと納得。
元ネタの西口彰は、wikiにも書かれているけど、口八丁で詐欺をする「知能犯」と、暴力によって人から金品を奪うことを厭わない「粗暴犯」の両面を持った人間。
だから、内面はともかく、一見すると、「人が良さそう」でないと、いけないのよね。
で、映画では、人を殺す凶悪さと、一方で簡単に人の懐に入り込む(外見上の)柔和さを、しっかりと演じていました。
ストーリー的にも、「どうして、こういう二面性を持っているのか?」が、時系列バラバラで、徐々に明かされていきます。
タイトルの「復讐するは我にあり」は、聖書からの引用だそうです。
皮肉な話ですが、西口彰はクリスチャン。映画の榎津巌も同じ。
本来であれば、教義的にも殺生は認められない。
にもかかわらず、希代の殺人鬼が生まれてしまった。
現代でも、往々にして、常識では理解し難い凶悪犯罪には、家庭環境に遠因が求められることがあります。
劣悪な家庭が、必ずしも特異な犯罪を生むわけではない。
でも、特異な犯罪者というものは、家庭環境になんらかの問題があったりする。
(■黒子のバスケ脅迫犯に実刑が下って、被告本人からのコメント)
(■「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人からの長文が掲載されているけれども)
「復讐するは我にあり」でも、父親との不和が、描かれています。
特に象徴的だったのは、戦時中の幼少期。
官憲の横暴によって、父親は船を接収されてしまいます。
それだけではなく、天皇陛下への忠誠も誓わされてしまう。
それを見ていた幼少期の榎津巌は、以降、非行の道に、迷い込んでしまう。
クリスチャンでありながら、神ではなく、(表面上であっても)天皇に仕えなくてはいけないという現実。
そこから、神(道徳)の無力を痛感し、法律も道徳もない人間になっていくわけです。
でも、一方、三國連太郎さんが演じる父親は、強い信仰心を維持したまま生きていく。
で、キーパーソンになるが、倍賞美津子さん演じる榎津巌の嫁さん。
嫁なんだけど、どうしようもない夫には既に愛想を尽かしている。
でも、信仰心の強い義父には心酔している。
さらに、その強い思いは、愛情にもなっていく。
義父を誘惑すべく、倍賞美津子さんが全裸で混浴風呂に入るシーンがあるんですが、当時も話題になったように、今見ても、なかなかです。
倍賞美津子さんは、撮影当時は三十前半かな?
ちょっと崩れてきた感じですが、そこが逆にエロいというか、リアルというか(今時の人は、時に、医療技術の臭いがしてね・・・・・。綺麗なら、文句を言う必要もないことなんだろうけど)、見事な肢体を披露しています。
アダムを誘惑するイブといったところ。(リンゴの代わりにパイオツだ!)
でも、義父は、その美しい裸体も拒絶する。
信仰としては、立派です。
が、立派であればあるほどに、天皇の権威を傘にきた官憲の横暴に屈してしまった姿は、際立つわけでして。
実際の事件も、この緒形拳さんが演じる榎津巌もだけど、一連の事件で得た金額って、所詮、微々たるもんなんだよね。(80万くらいだそうです。現在に換算すると、200~300万くらい?)
にもかかわらず、時には人を殺してまで金を奪う、その凶悪さと動機の軽さ。
ラストまで見ると、榎津巌の殺人は、父殺しの代償行為であったことが明かされます。(僕は、そう解釈しました)
「復讐するは我にあり」というタイトルの「我」とは、「神」を指すものであり、つまりは、人が人を裁く傲慢さを戒めた言葉です。
でも、この映画においては、「我」とは主人公を指しているのかな~? と思いました。
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