2014年9月27日土曜日

今村昌平監督「復讐するは我にあり」

たまに、古い映画が見たくなります。

面白くなくても、当時の風景や若いころの俳優さんを見ているだけで、けっこう楽しめますから。

そんなわけで鑑賞した今村昌平監督「復讐するは我にあり」。

実在の西口彰事件(wiki)をもとに、佐木隆三さんが執筆した本が原作になります。


主人公の榎津巌は、緒形拳さん。

最初見た感じでは、「軽い」。
凶悪犯なのに、なんだ、この軽さ?

しかも、個人的には、晩年のイメージが色濃くて、あまり悪人に見えない。

でも、ストーリーが進んでいくうちに、あぁなるほどと納得。

元ネタの西口彰は、wikiにも書かれているけど、口八丁で詐欺をする「知能犯」と、暴力によって人から金品を奪うことを厭わない「粗暴犯」の両面を持った人間。

だから、内面はともかく、一見すると、「人が良さそう」でないと、いけないのよね。


で、映画では、人を殺す凶悪さと、一方で簡単に人の懐に入り込む(外見上の)柔和さを、しっかりと演じていました。

ストーリー的にも、「どうして、こういう二面性を持っているのか?」が、時系列バラバラで、徐々に明かされていきます。


タイトルの「復讐するは我にあり」は、聖書からの引用だそうです。

皮肉な話ですが、西口彰はクリスチャン。映画の榎津巌も同じ。

本来であれば、教義的にも殺生は認められない。
にもかかわらず、希代の殺人鬼が生まれてしまった。

現代でも、往々にして、常識では理解し難い凶悪犯罪には、家庭環境に遠因が求められることがあります。

劣悪な家庭が、必ずしも特異な犯罪を生むわけではない。
でも、特異な犯罪者というものは、家庭環境になんらかの問題があったりする。
(■黒子のバスケ脅迫犯に実刑が下って、被告本人からのコメント)
(■「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人からの長文が掲載されているけれども)

「復讐するは我にあり」でも、父親との不和が、描かれています。

特に象徴的だったのは、戦時中の幼少期。

官憲の横暴によって、父親は船を接収されてしまいます。
それだけではなく、天皇陛下への忠誠も誓わされてしまう。

それを見ていた幼少期の榎津巌は、以降、非行の道に、迷い込んでしまう。

クリスチャンでありながら、神ではなく、(表面上であっても)天皇に仕えなくてはいけないという現実。
そこから、神(道徳)の無力を痛感し、法律も道徳もない人間になっていくわけです。


でも、一方、三國連太郎さんが演じる父親は、強い信仰心を維持したまま生きていく。


で、キーパーソンになるが、倍賞美津子さん演じる榎津巌の嫁さん。

嫁なんだけど、どうしようもない夫には既に愛想を尽かしている。
でも、信仰心の強い義父には心酔している。

さらに、その強い思いは、愛情にもなっていく。


義父を誘惑すべく、倍賞美津子さんが全裸で混浴風呂に入るシーンがあるんですが、当時も話題になったように、今見ても、なかなかです。

倍賞美津子さんは、撮影当時は三十前半かな?
ちょっと崩れてきた感じですが、そこが逆にエロいというか、リアルというか(今時の人は、時に、医療技術の臭いがしてね・・・・・。綺麗なら、文句を言う必要もないことなんだろうけど)、見事な肢体を披露しています。

アダムを誘惑するイブといったところ。(リンゴの代わりにパイオツだ!)


でも、義父は、その美しい裸体も拒絶する。
信仰としては、立派です。


が、立派であればあるほどに、天皇の権威を傘にきた官憲の横暴に屈してしまった姿は、際立つわけでして。


実際の事件も、この緒形拳さんが演じる榎津巌もだけど、一連の事件で得た金額って、所詮、微々たるもんなんだよね。(80万くらいだそうです。現在に換算すると、200~300万くらい?)

にもかかわらず、時には人を殺してまで金を奪う、その凶悪さと動機の軽さ。


ラストまで見ると、榎津巌の殺人は、父殺しの代償行為であったことが明かされます。(僕は、そう解釈しました)


「復讐するは我にあり」というタイトルの「我」とは、「神」を指すものであり、つまりは、人が人を裁く傲慢さを戒めた言葉です。

でも、この映画においては、「我」とは主人公を指しているのかな~? と思いました。


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2014年9月24日水曜日

「美しい絵の崩壊」を見てきた


「美しい絵の崩壊」見てきました。

幼いころから一緒に育った二人の女性が、それぞれの相手の息子と肉体関係を持ってしまうというお話。

これだけ聞くと、がっつりフランス書院ですが、原作はノーベル賞作家だそうです。(原作未読)


なんか、こういうインモラルな映画ばっかり見に行ってる気がする・・・・・。

以前の感想。
「ヴィオレッタ」見たよ
二階堂ふみ「私の男」を見てきました


まぁ映像的な分かり易い売りとしては、若く逞しい二人の男性と、おっぱいはちょっと垂れているけど、未だにおそろしいスタイルを維持している(努力の賜物なのか、科学の勝利なのか分かりませんが)美熟女の競演(スポーツ新聞的な表現をすると「競艶」)。

でも、ノーベル賞作家の原作ということで、ゲスい感じにはなっておりません。
キレイ目です。

中高年の奥様も安心、という感じ。


ストーリーですが、う~ん、なんか不思議な感じでした。

映画なんで、どうしても登場人物たちの心情は、忖度する必要が小説よりもありまして。

中年の女性が若い男に夢中になるのは分かるんですが、男たちの方は、なんでそんなに、こだわるのかな? というのが、どうにも不思議でした。


2つとも母子家庭なので、父親不在。
その結果エディプス・コンプレックスで実の母の代わりとして、友人の母を求めている?

母親同士は、本当はレズなんだけど(潜在的に、そういう欲求が眠っている)、それを認めない結果として、互いの息子を求めてしまっている感じはしましたが・・・・・。


ネタバレですが、ストーリーは、正直、予想が出来る感じ。

途中で若い女が出てきて、老いた女は取り残される、というお約束。


さらなるお約束で、「四人の中の誰かが殺されたり、自殺して、終わりか?」と思っていましたが、それはなかったです。


でも、意外というか、「へっ?」と思ったのは、ラスト。

男たちは若い嫁を手に入れて、子供にも恵まれ、はたから見ると、幸せいっぱい。
かつて肉体関係を結んでいた母親たちも、孫ができて満たされている。

と思ったら、若い嫁に、過去の肉体関係がバレてしまい、彼女たちは去っていってしまう。

で、モトサヤ(元鞘)で、終幕。


なんだよ、このモヤモヤな終わり方は。
てっきり、破滅で終わると思ったのに。


センセーショナルな話にはしたくなかったんだろうな、とは思います。
安っぽくなるからね。

けっこう寝不足気味だったんですが、退屈して寝るようなことはなくて、面白くは見れたんですが、それにしても、なんだか答えのない終わり方でした。


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2014年9月23日火曜日

文化系トークラジオ life「ソーシャル、レジャー、リア充」外伝の感想

本編に続いて、外伝の感想。
(■文化系トークラジオ life「ソーシャル、レジャー、リア充」本編の感想)

外伝は二つあって、前半は、峰なゆかさんの、「イケてる人になりたい!」についての、ツッコミ。

司会が、鈴木さんの悪戯(?)で、塚越健司さんになったのだが、やはり鈴木さんのようにはいかず。
グダグダで、つい衒学趣味で、話の流れとは関係のない解説を始めたりして、でも、それが面白いという感じでした。


で、「イケてる人になりたい!」ですが・・・・・・。

「別に、無理すること無いじゃん」
「努力して得ることも必要」

の二つの意見に分かれまして。

海猫沢めろんさんは、「オレ、数学が好きだけど、他の人には、「なんで?」的なあつかいをされる。でも、理解できていくのは楽しい」と。
他にも、西森さんも、場数を踏んだら、映画も見る楽しさが分かってきた、という意見。

だから、努力するのもいいんじゃない? という流れ。


でも、「イケてる人になりたい!」か。

最初、「リア充になりたい」だと思っていましたが、そうではない、とのこと。あくまでも、「イケてる人」が目標。

うーむ。


「欲望を捨て去りたい」と思っているうちは、欲望を捨て去ることはできない。
欲望を捨て去りさりたいという欲望すらも捨て去ったときに、悟りの域に到達できる。

てな感じで、修羅の道だな~と思ってしまいます。

「イケてる人」を目指しているうちは、イケてる人ではないような気がします。

南無・・・・・・。


で、後半は、ちょっと塚越さんの司会も板についてきた感じ。

でも、観覧席の方々から今日の感想をもらって、塚越さんがまとめると、速水さん他には、背伸びしている感じを笑われていましたが。


いろいろと話しているうちに、個人的には本編で疑問だった、リア充の定義に触れてくれたのが、海猫沢めろんさん。

便宜的に「草食系リア充」と「肉食系リア充」という二系統に分けました。

「草食系リア充」とういのが、イコール「ソロ充」(一人でも充実している人)。「肉食系リア充」というのは、一般的に(またはネットで)イメージされる「リア充」。


この言葉を聞いて、目の前が開ける感じがしました。

峰なゆかさんは、「草食系リア充」では嫌なんだよね。

「肉食系リア充」・・・・にはなれなくても、そういう人と一緒にいたい、または、そういう人だと他人から思われたい。
ということみたいですな。


でも、外伝でも触れられていたけど、・・・・・・年をとると、自分を変えるのって難しいよね、と僕も思わないでも。

しかし、ないものを望むが人間ですからね。


前回の感想でも書いたけど、ライフ出演者の人は、なんで「リア充」を、そんなに嫌うのかね~?

と思ってましたが、基本的に、出演者の人は「草食系リア充」に当てはまるんだろうな。

はたから見ると、十分充実しているように見えるけど、それでも、ないものをねだってしまうんでしょうな・・・・。

2014年9月22日月曜日

久保保久「よんでますよ、アザゼルさん。」の感想

「よんでますよ、アザゼルさん。」なんですが、1巻を読み始めたら止められなくなって、結局、今出てている11巻まで読んでしました。


作者が、ギャグに対してストイックだね。

絵はきれいで、女の子もかわいく書けるし、内容もゲスいギャグがバンバン出てくるのに、お色気シーンは少ないんだよね。(ないわけじゃないけど)

「そんなものは要らねー」という自負が伝わってくるよ。


それは、登場する悪魔たちの風貌にもあらわれていて、魔界では一般的なイメージする悪魔の形をしているけど、人間界にくるとファンシーなキャラクターになってしまう。

どの悪魔もかわいらしく描けているけど、スカトロ、シモネタ、セクハラという、その容貌には似合わないセリフ、振る舞いをさせるようにしている。
やりようによっては、女性ファンをつかみやすいのにねー。


で、ストーリーにしても、「いい話」になりそうな流れは、必ず、ゲスな話に引っくり返るようにして、読者に癒やしなんか与えない。


しょーもないギャグも多いけど(それがいいんだが)、ある悪魔の名前は、「サラマンダー公威」。

公威って言ったら、三島由紀夫の本名だな、と思っていたけど、wikiみたら、やっぱりモデルは彼らしい。

なんつーもんをパロっているんだか・・・・・。


そのサラマンダー公威なんだけど褌一丁で日本刀を振り回し、男尊女卑の極端な主張を繰り返し、ヘマをすると腹切りをしようとする、やり過ぎなキャラ。

それでいて、マゾというのだから・・・・・。


で、江原啓之さんをパロったキャラが出てきた話では、その「サラマンダー公威」が必殺技を披露するけど、名前は「黒蜥蜴」。三島先生の戯曲。

そして「黒蜥蜴」は、美輪明宏さんの代表作でもある。美輪明宏さんは江原啓之さんと一緒に「オーラの泉」なんて番組をやっていたわけでして。

江原啓之さんのパロったキャラは、見えないものが見えるとか言って、人を騙しているという、・・・・容赦無いです。


その他としては、ギャグ漫画なんだけど、けっこうストーリーもしっかりしているのが、今時の漫画だよな~と感心してしまいます。

主人公の上司であるアクタベの強さの謎、ヒロイン(兼主人公、兼狂言回し)佐隈の呪いの秘密、魔界の勢力争いなんかが、これから徐々に一本にまとまっていくのかな? という感じがします。

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2014年9月14日日曜日

植村和秀「ナショナリズム入門」

日本人は、日本人であることを自明に思っていることが多いと思います。
自分も例外にもれず、特に疑問に思ったことはないです。

日本人の両親から、日本で生まれたから、日本人。


でも、
「日本人って、なに?」
「日本って、なに?」
と聞かれたら、多くの人は正確に定義できないか、または、逆に「日本は日本はだろ、日本人は日本人だろ、ばーか!」で終わってしまうような気がします。


植村和秀「ナショナリズム入門」では、国と民族というものが、世界的にみて、けっこうあやふなだということが、これでもかと列挙してくれます。

世界的を基準にすると、日本の方が特殊なのかもしれないですね・・・・・。

解放感と不安感、進歩への希望と混乱への恐怖が、さまざまな形で組み合わさりながら、この近代化が進行していきます。あらゆるものが変化し、人間は自己の生きる枠組みを自分で確保していかねばなりません。その際に、ネイションは最も低コストで、人生の枠組みを提供していったのです。それは多くの人に対して、出生によって入場資格を与えてくれます。努力も必要とせず、ただ欲すれば一員となれるわけです。
神への決別と挑戦とも言える近代以降、人は自由になったけど、常に選択を迫られ、そして、存在意義を問われるという、やっかいな荷物を背負うことに。

そういう中で、国家に帰属する自己に存在意義を見つけて、さらに没入するという選択を選ぶ人もいるわけでして。

それが、地域への参加やら同胞への援助といった建設的な活力に昇華されるのであれば結構なんでしょうけども、弱者なり異質なる他者への排除に向かっている人がいる。

いつの時代もいるんでしょうけど、それにしても、昨今特に目立つように思えるのは自分だけではないはず。


中国なら憤青、韓国ならネチズン、日本ならネトウヨといったように、ネットの普及以降、なぜ、こうも愛国的な文言が(世界的に? それとも、東アジア限定?)増えたのか疑問でしたが、「ネイションは最も低コスト」という一文で、腑に落ちるものがありました。


国というパイの奪い合いをしなくては生きていけない人っているんだよね・・・・。


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2014年9月11日木曜日

『惡の華』 第六巻 の感想。


さて、最終巻の六巻。

率直な感想としては、「えっ、ここで終わるの?」。

一応、「第一部 完」となっているけど、第二部は難しいみたいね。

当初は(ネットでは)話題にはなったけど、あんまり人気が出なかったのか・・・・・。


ロトスコープではなくて、原作と同じような絵柄(アニメ絵)なら、もっと人気が出たのではないか? という意見もあるようだけど、まぁ、そうかもね・・・・・。


でも、ロトスコープ自体は、作品のテイストに合っていたと思います。

「じゃぁ、実写でいいじゃん?」という意見には、あんまり反論ができないところもありますが。
(実写にしてしまうと、原作のテイストが失われてしまうという面は否定出来ないので、その折衷として、ロトスコープは意味があるのか?)

まぁ、漫画自体は人気作なので、いつかは実写に挑む人間がいるんじゃないかな?


さて、ネタバレのストーリー。

前回、仲村も佐伯も選べないというヘタレを露呈した主人公の春日だけど、

「仲村の孤独を救えるのは、オレだけだ!」

という“逆”白馬の王子様妄想に取り憑かれて、仲村との和解が進むのが、六巻のメイン。


こうしてストーリーを見直してみると、春日が仲村に傾倒する理由って、こんなもんだったのね。


もちろん、春日自身が、周りの人間達と、適当に人間関係を築いていたけれども、あまり深い関係とは言えなかったことが背景にあるのは、分かるけど。


それにしても、あのカタストロフィに至るには、説得力がないような気がするな・・・・・。

すると、やっぱり、春日は仲村を恋愛対象として見ていたいのかな? という点。
で、当然、逆に、仲村は春日を恋愛対象としていたのか? というのも疑問。

どうなんすかねー。


少なくとも春日には、あったような気がするけど。


漫画を読み直してみると、夏祭りの前日って、「やったんかな? こいつら」と感じるところもあるけれども、そういうものを、(特に仲村は)毛嫌いしているから、なかったのようにも考えられる。

まぁもっとも、肉体関係がないからと言って、それが、イコール恋愛感情の欠如とは言えないわけでして。(春日と佐伯は肉体関係を持つことになるけど、精神的な結びつきはなかったように)


で、最後の最後で、仲村は春日を裏切るような形で、彼を残し、自分一人で死のうとする。

この理由って、やっぱり、よく分からない。


春日を引っ張りこんでしまった罪悪感なのかな? だから、突き飛ばした先には、母親が待っているわけで、それは、彼を元の世界に戻すことを象徴しているようにも見える。

その行為は、自分は畢竟一人であるという自覚の結果なのか、ではなく、愛するが故に(←恥ずいな)春日を巻き込みたくないと思ったのか?

ここらへんは結局、高校生編でも明かされなままだったな・・・・・。


まぁ、作者が明確にしていないというのは、つまりは読者が勝手に想像してよいのだろうけど。

でも、やっぱりモヤモアのままです。


『惡の華』Blu-ray 第六巻
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2014年9月10日水曜日

文化系トークラジオ life「ソーシャル、レジャー、リア充」本編の感想

TBS RADIO 文化系トークラジオ Life
録音しておいた「life」本編を聞き終わりました。

「ソーシャル、レジャー、リア充」というタイトルから、「どんな内容になるんだ?」と、ちょっと不思議でしたが、現在のSNSがレジャーと、どう結びついているのか? という流れでした。

司会の鈴木さんが指摘する問題点としては、
  • SNSは企業のもの。営利目的に利用されていることに自覚的であれ
  • 企業の手の上であるのだから、無理にする必要はないことに気づけ
という二点かな?(自分が聞き取った範囲ですが)

前者は、クリスマス資本論と通底するものですが、そんなに触れられていなくて(外伝で触れているのかな?)、メインとしては後者が語られていたような気がします。

「別に好きでやっているんだから、そんなの気にしなくていいじゃん?」

と言ってしまえば、それまでですが、

「本当に好きでやっているの? やらなくてはいけないという空気に踊らされている? または強制されているんじゃないの?」

という疑問があり、だから、副題では「ソーシャル、レジャー」の後に「リア充」が出てきます。


「リア充であることをアピールする為に、無理にSNSを使ってない?」

であり、逆に言うと、

「本当のリア充なら、SNSなんか要らないのでは?」

という仮定が導き出されておりました。


いつも通り、楽しく拝聴していたんですが、モヤっと心に引っ掛かっていたのが、「リア充」の定義。

もちろん、「リアル(現実世界)が充実している人」というのは、当然、知っていますが、そこから想定される具体的な人間像というのが、今回の出演者によって微妙に違う点。

特に、あらわになったのが、松谷さんが「同窓会に参加している人は、リア充だ」という発言に対して、いつもはプロレス的に意見を戦わせる傾向がある速水さんと西森さんが一緒になって、「同窓会に出るなんて、リア充なわけないじゃん」と噛み付いたところ。(司会の鈴木さんも、速水さん等と同意見かな?)

僕は、高校の同窓会に、一度参加しただけなのですが、そのイメージからすると、松谷さんに賛成。

僕の高校が、一応、地元では進学校だったということもあり、参加者のほとんどが公務員(地方の役人か、教師)や銀行員だったんだよね。

そして、女性の既婚率は高い(ようだった)。

「なんだかみんな、立派な仕事に就いているな」
と思ったけど、冷静になって考えてみると、「立派な仕事に就いている」と思っている人が参加しているんだよね。

田舎の進学校の生徒だから、プライドは高い。
だから、今の自分に満足しているような人間だけが同窓会に来る。

自分の現況に対して、恥ずかしいと思っているような人間は、来ないわけですよ。


で、速水さん西森さんにしてみると、「田舎でくすぶっているような人間は、都会に出れなかった負け組」というイメージがあるようで。(俺たち、都会の荒波にもまれながらも、フリーランスとして、立派に食っているぜ! という自負があるんだと思います)

だから、同窓会にのこのこ出るような人間が「リア充」なわけがない。
そんなの「マイルドヤンキー」じゃん?

ということらしいのですが、僕個人の同窓会でのイメージは、出席者は、おそらくは「マイルドヤンキー」に定義される人ではなくて、かたい仕事で家庭もあって、立派なリア充でしたよ。(これをリア充と言わずして、何を言う?)


そもそも、「マイルドヤンキー」って、リア充でしょ?
違うの?

2014/04/27「マイルドヤンキー限界論」 アーカイブ

以前、「マイルドヤンキー限界論」で語られていたように、「彼らに先がないじゃん?」というのは分かるけど、でも、少なくとも現在が充実しているなら、それって十分にリア充じゃないのかな?

未来が保障されないされないからリア充から外れる、というのであれば、就職していない大学生なんかは、全員が非リア充ということになるわけでして。


リア充に対するイメージの違いが、どうも、しっくりとこなかったな・・・・・。


だいたいにして、ライフ参加者は、冗談交じりで「自分たちは非リア充」という規定しているんだけど、社会人になって三十超えたら、仕事が充実しているかどうかが、その人の人生を決めると思うんですよ。

そういう点からすると、参加者の皆さんは、十分に充実しているように見えて、「えぇい! リア充(古市憲寿)め!」というルサンチマンをいくら見せられても、なんだかな~、と思うところはありました。

2014年9月7日日曜日

「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」読了


「なげーな、おい」と思わずボヤきたくなる「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を、ようやく読み終わる。

全七巻で、四巻目だから、ちょうどターニングポイントです。


内容としても、宿敵のヴォルデモート卿が復活。
こっから以降は、本格的な戦いになっていくんですかね。


ストーリー展開は、まあ、けっこうパターンですけど。

新しい謎の先生がやってきて、マルフォイが嫌がらせして、ヘンテコな先生と生物に振り回されて、なんか特訓したり、図書館で調べものしているうちに試合の糸口が見えて、最終的にはハリー・ポッターが勝って、犯人が判明・・・・・。

ちょっと変わったところでは、クイディッチではストーリーが持たないと思ったのか(?)、今回は他校との戦いがメインに。


しかし、いつも思うのは、大人が間抜け過ぎるね。

なんで、闇の魔法陣営の人間に対して、先手を打てないのかね?

長さは大人向きの本をも凌駕するけど、ここらへんの「ゆるさ」は、やっぱり児童書なのかな? と思ったりします。


今年中に、残りの巻を読み通せるかな・・・・・。


以前の感想。
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」読了


ハリー・ポッターと炎のゴブレット 携帯版
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2014年9月6日土曜日

矢口史靖監督「WOOD JOB! ~神去なあなあ日常~」の感想


矢口史靖監督と言えば、どれも楽しい作品ですが(初期は違うようですが、未見です)、最近の白眉は「ハッピーフライト」かな? と個人的には思います。

で、監督の最新作「WOOD JOB! ~神去なあなあ日常~」を見てきました。



ストーリーは、youtubeの予告編を見ると分かる通り、「都会人が田舎に行って、その良さを知る」という、・・・・・ぶっちゃけ、例のパターンです。

矢口史靖監督らしいところ(原作は三浦しをんさんですが)は、悪い人じゃないけど毒のある登場人物と、あんまり深い悩みを持たない主人公というところかな?


正直なところ、田舎を美化し過ぎているけど、エンターテイメントだからね。(都会を貶めているわけでもないけど)

あんまり深入りすると、めんどうになるから、ちょうどいい湯加減かな?
それに、過剰に深刻にならないのが矢口監督の味ですし。


出演者も、どれも適材適所。

主役の染谷将太さんは、「ヒミズ」では、中二病が行き過ぎた役を好演(怪演)してましたが、今作では、ゆるーい都会の若者。
ちょっとやり過ぎなくらい軽いですが、まぁ、コメディだからね。

ヒロインは長澤まさみさん。相変わらずお綺麗ですが、行き遅れという設定。
もう、そんな役なのね。


意外と言っては失礼ですが、優香さんが、ちゃんと女優してました。

以前は「どれ見ても、優香だな」としか感じませんでした。

が、こちらでは、そんなに出番が多いわけではありませんが、ヤンキー上がりな感じのする元気な若妻を、きっちりと演じてました。


ストーリーは丁寧で、伏線もしっかり回収されるので、安心して見れます。

が、丁寧すぎると、作品が分かり易くなって、薄っぺらい感じになってしまうのは、仕方ないことでして・・・・・。


ネタバレなんですが、それでも疑問なのが、ラスト。

なんで、主人公は、一旦、都会に戻ったの?
あれが謎だな・・・・・。

まぁそうでもしないと盛り上がらないという物語上の都合のような気もするけど。


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2014年9月5日金曜日

ようやく出たよ「機動戦士ガンダム THE ORIGIN 愛蔵版 第十二巻」


「愛蔵版」の11巻が出たのが、2012年9月。


「もう出ないのか?」までは思わなかったけど、こりゃ、2015年のオリジンのアニメまで引っ張るつもりか? と覚悟していたら、2014年の8月末に、ようやく発売されました。
二年だよ・・・・・。

まぁ普通の単行本では出てるし、そもそも、基本的なストーリーはアニメと同じだからね・・・・・・。


とは、言うものの、安彦良和先生らしい脚色が楽しいがオリジンでして。

最後のアムロとシャアの決闘シーンはページが多く割かれています。
もしかしたら、ガンダムとジオングのラストよりも量が多いのでは?


で、そこで語られているのは、シャアの苦悩なんだけど、ララァへの愛、母への愛、妹への愛を惜しげも無く披露します。
さすが、「マザコン」「シスコン」「ロリコン」の三冠王と呼ばれる男。(もっとも、シャアは20才で、ララァは17才という設定らしいので、今にたとえるなら、大学生と高校生くらい。ロリコンというのはヒドイけど)

ちなみに付け加えると、父の遺志を継ごうとする姿からは、ファザコンもあるよね。


それは冗談にしても、アムロとの決闘シーンで浮かび上がるのは、シャアの血へのこだわり。または、「重力に魂を縛られた」ならぬ、「血に魂を縛られた」人なのね。


それに比べて、ライバルのアムロは、家族に対しては淡白だよね。
(冷淡とも言えるかもしれない)

地球では母を残してホワイトベースに乗るし、再会した父は、酸素欠乏症で正常ではないにもかかわらず、こちらも見捨ててしまう。

だから、ララァには、
なぜ?

あなたは
こんなに
戦えるじゃない!

なぜなの?!
あなたには守るべき人も
守るべきものないというのに!

わたしには見える!
あなたには故郷もなければ家族もいないわ

人を愛してもいない!!
と、戦いの最中に詰られてしまうわけでして。


ここらへんの好対照は、「オリジン」で再構成された結果として、より明確になっているように思えます。


ちょっと話が飛ぶんですが、最終巻での「オリジン」のオリジナル要素として外せないのは、セイラがア・バオア・クーにて、ジオン・ダイクンの遺児として反乱を煽動するところ。

これはこれで面白い展開だったけど、「えらいエピソードをぶっ込んできたな」とも思ってしまった。

敵のパイロットの格好をした女を担ぎ上げて、反乱の象徴にするなんて、そりゃ、いくらなんでも、無理があるような?


ソーラ・レイによって連邦の戦力が激減しておきながら、ア・バオア・クーでジオンが敗れる為に、内部抗争が激化という設定自体は分かる。

けど、それは、ギレン派とキシリア派の戦いを描けばいいのであって、そこにセイラ(アルテイシア)を持ってくる必要性はない(はず)。


そう考えると、このエピソードの主眼は、

・「オリジン」のオリジナル性を高めるため
・物語をより盛り上げるため

も、あうだろうけど、ジオン内部における「ダイクン」という名前の巨大さを表現しようとしたのかな? と思う。

ザビ家の独裁が続いているけど、または続いているからこそ、大衆の「ダイクン」への郷愁、期待、渇望は強く、だから、なんだかよく分からない連邦(敵)の女性パイロットを、ああも簡単に信じてしまった。


で、このエピソードが差し込まれることによって、シャアを復讐に駆り立てるものの正体が理解しやすくなっている。(また、後に続く、「Z」や「逆襲のシャア」への、伏線にもなる)

ガンダムUCでは、フル・フロンタル(シャアっぽいけど、本人ではないと思われる。シャアの遺志を継ぐ者)は、自らを「器」と規定しているけど、言い得て妙。
シャア本人にしても、衆望がつくりあげてしまった「ダイクン」という名前(父)に、「魂を縛られ」てしまっている。


そして、ラストシーンでは、シャアは、一人で復讐を完遂する。
血や衆望に縛られていながら、仲間はいない。肉親の妹からも理解されているとは言い難く、唯一の理解者であったララァは、ライバルのアムロに魅了された上に死んでしまっている。
孤独。

一方で、アムロは、本当の家族は捨てたような形になっているけど、ホワイトベースの仲間の元に戻って行く。

ホワイトベース自体が、ブライトを父、ミライを母にして、擬似家族のようなもの。
彼らとアムロが本当に分かり合えたとは言えないけど、少なくとも、そこには信頼や絆というものはある。

だから、
ボクにはまだ帰れるところがあるんだ
こんな嬉しいことはない・・・・・・
というラストのセリフになるんだねー


こうして「オリジン」読み終わって、映画を見直してみたくなったよ。

UC人気もあってか、最近になってブルーレイ版が出たのは知っているけど、一番安くて一万弱か。ちょっと悩む値段です・・・・・・。


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