2017年6月19日月曜日

「スウィート17モンスター」



「スウィート17モンスター」、見てきました。

原題は、「The Edge of Seventeen」。
どう訳すんでしょう?
「17才のギリギリ」って、感じでしょうか?

いずれにせよ、「17」という主人公の年齢がタイトルに入っていることには、変わりなし。

なんとなく、アンジェリーナ・ジョリーが若かりし頃に出演した「17才のカルテ」を思い出しました。

「JUNO」の主人公も同じくらいかな? と思って調べたら、16才から始まるそうです。

このくらいの年令の少女というのは、アメリカ人には、なにか抜き差しならぬ感情を呼び起こすものなんですかね?

日本では、俗に「中二病(14才)」という言葉ありますが、アメリカでは「高二病」ってことでしょうか?

梗概


そういうどうもいいことは、さておき。

ストーリーですが、・・・・・・学校(集団)にまったく馴染めないタイプのネイディーン。唯一の友人であるクリスタと一緒に、モテナイ女子を、すっかりこじらせてしまっている。

つまらない日常ではあるが、理解者が近くにいる・・・・というか、似たような境遇を持つ友人がいるうちは、ネイディーンもどうにかこうにかやっていけていたものの、その友人が、彼氏をつくってしまう。

しかも、ネイディーンが大嫌いな兄貴とくっついた、というのだから、我慢がならない。
この状況を、どうにかしようと、もがくのであったが・・・・・・。

可愛げのないトラブルメーカー


以下、ネタバレあり。

集団や組織に溶け込めない苛立ちというのは、まぁ、よーく理解できるタイプの人間です。
だから、共感できそうなものなのだが、正直なところ、主人公のネイディーンには、終始、イライラを覚える。

「自分がオッサンになってしまった」割には、子供もいないので、「若者の青さを愛でる」という余裕がないことも理解しつつも、・・・・・・しかしだな。

ネイディーンが、あんまりにもトラブルメーカーでね。

「普通の人」たちと、普通のコミュニケーションも出来ないのは、まぁ、よろしい。
だけれども、その反動として、「自分を許容してくれる人」 or 「自分との関係を断ち難い人」(「家族」「教師」「親友」)に対しては、遠慮のない言葉を発してしまうのは、十代の子供としては、「リアル」ではある。

でも、「リアル」なだけに、なんとも、気持ちが良いものではなかった。


病気で旦那を亡くした母親は、シングルマザーとして、二人の子供を育てようと必死になっているのに、そんなことは娘にはお構いなし。(←これもまたリアルではあるのだけれども)

また、彼女が大嫌いな兄貴にしても、登場時は、「いけ好かないリア充タイプかな?」と思ったら(少なくとも、妹は、そう思っている)、友人たちの「おイタ」の後片付けも別段怒ってはいないし、すっかりひねくれた妹であってもパーティーに連れ出すような面倒見の良さ。だから母親にも頼られているし、飲み会を中座しなくていけない場面では、友人たちから惜しまれており、物語においては往々にして、リア充は嫌味な人間として描かれ勝ちですが(もっとひどいと、「リア充」=「スーパーフリー」になっている)、実際には、「衣食足りて礼節を知る」でして、満たされている人間は、優しかったりするよね。

つまりは、妹の評価とは真逆で、兄貴というのは、ナイスガイ。
そりゃ、親友も惚れるわな。


最終的には、「自分だけ不幸だと思うなんて、スゲェ~痛いよね」ということで、他人を受け入れることができるかも? という落着で大団円。

・・・・・なんだけれども、オッサン的には、やっぱり納得がいかない。


結局、最後の最後まで、ネイディーンは他人頼み。
自分から能動的に行動することはない。

それで、まぁ、大人しいというならまだしも、身近な人間を好きなだけ振り回しておきながら、「世界で一番私が不幸」って顔しているのだから、困りモノ。

偶然にしろ、唯一、自分の力で勝ち取った白人イケメンとの夜も、「えぇー、私、そんなつもりじゃないんだけど」と拒否しているわけで、・・・・・そもそも、お前がお馬鹿なメッセージ送って誘ったんだから、仕方ないじゃん。勝手に傷ついているんじゃねーよ。

で、「人間、顔じゃないね」とばかりに、自分を想ってくれるアジア系の男を選ぶことになるのだが、まぁ、ぶっちゃけ消去法にしか見えない。


そして、これは製作者のミスとしか思えないのが、そのアジア系の少年(青年?)は、金持ちの息子という設定。

クリエイティブな才能があるくらいなら、まぁいいだろうけど、そこに「金」という長所を加えてしまうと、「えっ、なに、容姿で選んで失敗したから、ネイディーン、今度は金?」と意地悪な解釈をしてしまいたくなるわけで・・・・・。


この物語は、「父親」という世間とのハブを喪失した少女の「再生」がキモ。

父親とは唐突な別れではあったが、いつかは無尽蔵な愛によって庇護されている世界から、独り立ちしなくてはいけないのは、誰もが同じ。

大人になることを早くに強いられ、逆に、その愛着ある世界から逃れられなくなってしまったネイディーンが、どうやって大人になるのかが大事なんだけれども、最終的には、自分では、まったく努力なんかしないで、勝手に男が惚れてくれ、しかも、初めて出来た彼氏は仲間内からも一目置かれている上に両親は金持ち。

その彼女という席に収まって、自尊心も満足♪ だから、ハッピーエンド?

父親という無尽蔵に愛してはくれるが支配もしてくる「世間とのハブ」を放棄するのではなく、新しく自分を守ってくれる・保証してくれる男を手に入れて終わりってのは、古色蒼然たる「白馬の王子様願望」でして、・・・・いいのか? これで。

おまけ


ストーリーには、ちょいっと納得が出来なかったものがありますが、映画としては、ちゃんとしているのは、さすがハリウッド。

特に、主役のヘイリー・スタインフェルドが、ちゃんと痛い少女を演じているからこそ、見ているこちらは腹が立つわけで。

hailee steinfeld google画像検索

こうして画像を見れば、美人さんなんですが、映画の中だと、ちゃんと「ちょいブス」なんだよね。(役に合わせて、少し太った?)

それも、ネイディーンがヒステリックに自分勝手なことを主張する場面、つまりは「性格ブス」が発揮されると、映像上でも、ちゃんと「ブス」に映るわけで、ここらへんの表現力は、大したものですなぁ~。


Ost: the Edge of Seventeen
by カエレバ

2017年6月16日金曜日

「牯嶺街少年殺人事件」感想



まぁ、なんとなくはタイトルを知っていた「クーリンチェ少年殺人事件」。

近所の映画館で放映されると聞いたものの、上映時間四時間というボリュームにビビってしまう。しかも休憩なし。
生半可な決意では見れない映画です。朝から水分を控えて、行ってきました。

上映中、全く退屈はしなかったものの、それでも、「今、どれくらい?」と気になって携帯のディスプレイをオンにしてみたら、そろそろ二時間。「ここで折り返しとは、鬼だな・・・・・」とは、思いました。

見終わった瞬間は、「まずまず面白かった」程度の評価。
「どのシーンも、それなりに意味があるのは分かるが、削ろうと思えば、削れるシーンもあるよな。シンプルにしてしまえば、二時間でも収まる気はするけど」などと生意気なことを思っていましたが、・・・・・後々になって、じんわりと効いてくる。

数日が経っても、ふとした瞬間に主人公・小四の少年らしい生硬さが脳裏に蘇り、この映画のことを考えしてしまう。

現実と理想


ストーリーの基軸は、主人公・小四と、ヒロイン・小明の悲恋。

と言っても、「ロミオアンドジュリエット」ではなく、小悪魔タイプの女性に、男が振り回されるという感じ。

小四を演じていたチャン・チェンさんは、当時を振り返って、このように述べています。
僕は当時、リサ・ヤン演じる小明の役柄が本当に理解できませんでした。非常に複雑なキャラクターでしたから。あれから25年経って改めて作品を観て一番感じるのは、より小明のことを理解できるようになったということですね。■Real Sound|リアルサウンド 映画部
まぁね、十代半ばの少年からすれば、「どうして、男(の子)の熱意を、この少女は、理解できない? 信頼しない?」と思ってしまうよなぁ。

非常に悪意のある言葉を用いれば、ヒロインの小明は、「ビッチ」。
実際に多くの男と寝ているかどうかは別にして、その場その場で、一番力のある人間を見つけて、あっさりと懐に飛び込んでしまう。

そんな、(少なくとも精神的な)貞操観念が薄い少女ではある。
若い受け手(観客)であれば、どうしても主人公側に立ってしまうけど、ある程度、年を重ねると、どうしても彼女の生育環境にも目がいってしまうわけで、病気の母がいるけど、どうやら父親はいない。頼るべき親戚も、裕福ではない。そんな状況下、サバイバルの為には、理想など抱いてはいられない。
生きる為には(母を守る為には)、現実と「寝る」必要がある。

言うなれば、リアリストである小明は、現実を評価も肯定もしていないし、受け入れてもいないのだろうが、しかし、それはそれで認めなくては、いけない。諦観している。

その立場は、彼女のラストの言葉、「私を変える気? この社会と同じ 何も変わらないのよ」に如実にあらわれている。


一方で、主人公・小四の、「この世界は僕が照らしてみせる」というキャッチコピーからも分かるように、ロマンチスト。
世界を変えられる・・・・・とまでは思っていないだろうけど、自分の力で、彼女を救えるいう自負がある。

まぁ、しかし、実際問題として、経済力もないティーン・エイジャーが、病気の母を抱えた女性を幸せにできるわけないのだが・・・・・。

光と闇


実際にあった事件を基にした作品であり、犯人が夜間中学校に通っていたのは、事実のようです。

実際の牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件とはどんな事件だったのか

この物語は、主人公・小四が、中学受験に失敗して、夜間学校に通うことになったシーンから始まります。
つまりは、「昼」から排除されて、「夜」に生きることになるわけです。

台湾という南国が舞台なので、日本の横溝正史映画のような夜ではないものの、昼と対比して、陰鬱であることは否めない。

そして、夜陰に紛れるようにして、不良行為を重ねる少年たち。
時には生々しい暴力も振るわれる。

そういう世界で、小四が、「目の調子が悪い」と、部屋のライトの点滅を繰り返しているのは、彼が、夜の世界に馴染めていないものの、かと言って、昼の世界にいることは許されていないことを示唆している。

光と闇の間にいる中間の存在。大人でも子供でもない、少年期ですな。

そして、この映画のスゴイところは、この象徴的なシーンが、単なる象徴で終わっておらず、小明と出会う伏線になっているんだよね。


また、夜間中学を退学になってしまう際に、主人公が壊すのが電灯。
「夜の世界に生きる主人公の、かすかな未来を、自らで閉ざしてしまった」、または「所詮、昼間には敵わない、教師たちの照らす偽物の光を、少年らしい正義感でもって破壊した」とも解釈できるシーン。

いずれにしろ、電灯を壊す時に、手にするバットは、ちゃんと映画の前半部において教師に没収されてしまったものなんだよ。しかも、自分のではなく、友人のバッド。

このことを、「教師の横暴」とするか、「主人公の自業自得」とするかで、後の退学シーンの解釈にもつながり、また、夜間中学をクビになったことは、主人公を追い詰める一因になっており、こういう連関は、ホントっ、巧みね。
いくら四時間という余裕があるとは言え。

変わらない現実


ヒロインが病身の母親を抱えているという「現実」を背負っているように、主人公も、また別種の「現実」を突きつけられる。

小四の父親は、国共内戦で、台湾に逃げてきた、いわゆる外省人。
そのため、大陸(中国共産党)と通じているのではないかと疑われて、連行されてしまう。

強引に連れ去られたわけではないし、取り調べにしても、暴力を振るわれているわけではない。しかしながら、自分たち(国民党?)に都合の良い答えが出て来るまで続けられる尋問の執拗さ、(おそらくは)法律に基いているわけでもないので、勾留期間がいつまで続くのか分からない不安、そして、先方の気まぐれのような決断であっさりと保釈されてしまう不気味さ。

この連行によって、父親は精神のバランスを崩し、夜間に「怪しい人間がいる」と騒ぎ出したり、母親の腕時計を質に入れてしまった兄貴(冤罪なのだが)に執拗に暴力を振るう。


そういう、夜の「現実」世界に生きる主人公が手にしているのが懐中電灯。
今更、言うまでもないことだろうけど、懐中電灯は、「夜 = 闇 = 暗い現実」を照らす道具。

で、ヒロインの名は、「小明」。
皮肉ですな。

主人公は「彼女の希望となってみせる」と言っているけど、まぁ、逆に考えると、「彼女の希望となることが、彼にとっての希望」。

しかし、彼女という「現実」は、変化を拒否する。
希望の潰えてしまった主人公は、懐中電灯を捨ててしまったように、「現実(小明)」を壊すという対応をせざる得なくなってしまった・・・・・。


で、ラスト。
映画の冒頭と同じく、ラジオからは、昼間部に合格した学生たちの名前が流れている。
彼らは昼間に生きることを許された人間であり、主人公が手にすることが出来なかった世界に生きている。

その対比は酷薄でありつつも、また、壊れてしまった古いラジオから流れてくるというのは、どことなく新しい世界への変革を想起させるものがあり、・・・・・・やっぱり巧みですなぁ。

おまけ


こういう作品を見せつけられると、単なるアイドル映画の枠内に収まってしまった「ホットロード」の実写版は残念だったなぁと、改めて思ってしまうよ・・・・・。

能年玲奈主演「ホットロード」を見たわけだが


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by カエレバ

2017年6月15日木曜日

映画「22年目の告白 -私が殺人犯です-」


休みでスルこともないので、なんか映画見ようと思ったものの、近くの映画館では気になる作品はない。

消去法で、「22年目の告白 -私が殺人犯です-」を選択。


で、感想としては、うーん、まぁ、邦画だなぁ・・・・・。(元ネタは韓国映画のようですが・・・・・、オープニングでもエンドロールでも、その記述がなかったような?)

大げさな演技と大げさな音楽。

なんだけど、ストーリー自体が、なかなか豪快なので(筋は通ってはいるが、四人目の被害者って?)、そりゃ、演技も音楽も、それに応じた結果。正当な比例とでも言いますか。

そもそも藤原竜也さんが主演だから、まぁこうなるか。


テンポが良くて、ストーリーは明解、どんでん返しも程良くて、好きな人は好きなんだろうけど、個人的には、もうちょっと落ち着いた感じの方が好みだなぁ・・・・・。

by カエレバ

2017年6月11日日曜日

日本人の扱いが、これで大丈夫か? と、ちょっと心配になった「哭声/コクソン」



韓国映画の「アシュラ」も面白かったので、「コクソン」も見てきました。

人口三万人くらいの、「村」ではないが、「町」とも呼び難い過疎が始まっている鄙びた韓国の地方が舞台で、場面場面の情景は、極東の日本と似ているけど、やっぱりちょっと違う。

そんな場所で、次々と起きる不可解な事故や殺人。

主人公の警察官は、その異常さを不気味に思いつつも、偶然だと割り切っていたが、奇妙な初老の日本人の噂を聞いて、徐々に、彼の仕業ではないかと怪しむようになる・・・・・・。

そんな感じのストーリー。


で、ネタバレ。

二転三転するのだけれども、結局、國村隼さんが演じる日本人は悪魔でした、というオチ。

まぁ、日本人の役者が日本人という設定で演じているのだが、なにか「日本人的なモノ」を象徴しているようなシーンもなく、あくまでも、「よそ者」として描かれているに過ぎないし、製作者としても政治的な意図はないのかもしれないが、どうしても日韓の現況を鑑みるに、なんだか深読みしてしまいたくなるのは詮無いこと。

それは、さて置き。

終始ダレることなく、ポンポンとストーリーが進んで、まったく退屈することなく見ることが出来る映画ではあったが、しかし、終わってみると、「うん?」と思うのは、祈祷師対決のシーン。

主人公側だと思われていた祈祷師は、最後の最後で「悪魔の手下でした」というオチだったが、では、あの対決シーンで、國村隼さんが演じる人間の皮をかぶった悪魔は、誰に追い詰められていたの?

また、主人公の娘にしても、誰に苦しめられていたの?
娘には、悪魔に敵対する存在(天使?)が取り憑いていた、ということなの?

ここらへん、なんだか良く分からなかったなぁ・・・・・。
まぁ「何度も観てね!」ということなんだろう。


もう一つ気になったのは、主人公が相棒と一緒に踏み込むシーンで、これまでの被害者の写真を発見してしまうのだが・・・・・、普通に考えれば、あれで事件解決じゃね? と思ったのは、僕だけ?


by カエレバ