アマゾン大荒れ
「アイアムアヒーロー」。大泉洋さん、有村架純さん、長澤まさみさんといった人気キャストで実写映画にもなりました。
2010年代の漫画を代表する作品の一つと、もう言い切ってもいいのではないでしょうか?(連載開始は、2009年みたいですが)
で、先日、無事最終回を迎えたのですが・・・・・・。
最終巻を読み終えた、僕の感想は、「えっ?」。
これで終わったか・・・・・・、と、正直、唖然。(唖然とはしましたが、まぁ、コレはコレでとは思います)
こういう読後感を持ったのは、僕だけではないようでして。
■最終巻が発売された「アイアムアヒーロー」の『Amazon』レビューが大荒れ - エキサイトニュース
大荒れになったということは、良く言えば「読者の予想を超えた」、悪く言えば「ファンの期待を裏切った」。
既存の作品にありがちなラストに堕してしまうことはなかったものの・・・・・・・、それだけに、いろいろと問題を内包しているのも事実。
タイトルの「アイアムアヒーロー」。
一巻から読み直してみると、主人公の鈴木英雄は、「アイアムアヒーロー」と何度もつぶやいているんだけど、それは物語の序盤に集中している。
腰抜け、度胸なし、一度は漫画の連載を持っていたが、今は人に使われるアシスタントの身。当然、金もない。
そんな、「物語の主人公」ではあるが、「人生の主人公」とは自認できない境遇が、目標として、「アイアムアヒーロー」と口にさせている。
読者としては、情けなかった鈴木が成長し、紆余曲折を経て「ヒーロー」になるラストが待ち構えていると、どこかで想定(期待)していたのでは?
事実、中盤以降、「アイアムアヒーロー」と口にすることが無くなったのは、圧倒的なカタストロフィの中で、まだまだ不甲斐ないながらも、自らの立ち位置を得たことが影響していると思われ、それは、鈴木の妄想の産物である「矢島」が登場しなくなった&別れを告げたことからも分かる。
その延長線上で、比呂美を救出する為に、危険な東京に戻ることを決意しており、読者としては大団円が待ち構えているのではないだろうかと、当然考えたわけですが・・・・・。
が、結果としては、救い出せないだけではなく、一見すると、「えっ、鈴木、何しに行ったの?」という活躍未満で終わってしまった。
壮大な肩透かし・・・・・・。
ヒロイン
作者の意図はどうあれ、多くの読者からすると、鈴木はヒーローになることなく終わってしまったと感じたのでは?
まぁ、確かに、鈴木の愛した女性が、この物語では三人登場するが、全員がバッドエンド。
ひどい話ではあるが、二人の死を土台にして、三人目の女性を救えたのならまだ救いもあろうが、それすら叶わない。
そもそも、救えなかっただけではなく、一巻で登場する最初の女性:黒川徹子(通称:てっこ)は、ZQN化しても鈴木を守ろうとしており、二番目のヤブにしても、自らの妹を通じて、クレーンの上に追い詰められた鈴木を援護している。
そして、ヒーローを想起させる名前からも分かるように、メインヒロイン、または鈴木のパートナーとしての位置を占めていた第三の女性である「比呂美」。
彼女との出会いによって、鈴木はかつての恋人「てっこ」の遺品(歯)を喪失してしまう。
また第二の彼女であるヤブを間接にしろ直接にしろ手を下したのも比呂美であり、その二つを「継承」と見るか、それとも「断絶」と見るかは人によって違うだろうが、少なくと、彼女が、鈴木にとって特別な位置を得ているのは間違いない。
その彼女は、最終的には、「この男は生きている方が勝手に苦しむから生かしておいて…」という思いでもって、彼をZQN化させて合一することなく、逃がす。
母性による救済、恋人としての温情にも思えるが、その結果として、鈴木は、文明の滅んだ都市に一人取り残され、一方の「比呂美」自身は、合一したZQNたちと一緒になり、動きを止めてしまっている。
作中においては、鈴木が線香を上げているところからすると、生物的な「死」を迎えているようであり、もしかしたら、SF的な飛躍で、新しい生命体として生きている可能性もあるのかもしれないが、少なくと普通の人間が認知、または交流できる存在ではない。
二人の彼女を受け継ぐ、または断絶を図り勝ち残った比呂美から、鈴木は、それが温情にしろ、「拒絶・追放」されてしまう。
そもそも、比呂美は、希死念慮までは行かなくても、自らの人生に、抜き差しならぬ「寂しさ」をかかえた人間。
その「寂しさ」を、鈴木が癒せていたのなら、このような結末は迎えなかったのであるが、まぁーねー、途中で、比呂美を兵器として利用していたもんなぁー。
結局は彼女を救うことは出来ず、その結果として、彼氏である鈴木と一つになることを「拒否」しつつも、その命を「救助」するという、優しくも酷い行為に結実してしまった。
まぁ、この一件からすると、鈴木は「ヒーロー」という境地には到達出来なかったと言わざる得ないわけでして・・・・・・。
ヒーロー
一方で、作品内において、鈴木のライバル的な役割(ライバルというよりは好対照と言うべきか?)を担う、中田コロリ。
鈴木の恋人「てっこ」の元カレであり、売れっ子の漫画家。
才能もあり、女も金も苦労していない、鈴木からすると嫉妬するしかない対象。
ZQNがはびこる社会においても、エキセントリックな性格のまま、その環境に対応してしまっているだけではなく、周囲の人間たちからは頼られてすらいる。
そして、最終的には東京都心から脱出することに成功して、離島で漫画三昧という生活を送っている。
明言はされていないものの、もしかしたら子供ももうけている。
(おばちゃんは、中田に好意を寄せていた半感染の女兵士にいったん飲み込まれることで若返っているから、おそらくは彼女の意思を取り込んでいると思われる。だから、中田の子である可能性は高い)
「ヒーロー」的な役割は、終始変わらないだけでなく、仲間にも(家族にも)、さらには仕事にも恵まれたハッピーエンドを迎えている。
主人公のはずの鈴木とは、真逆。
中田
しかし、単純に「ヒーロー」的な立ち位置を奪われたというわけではないのは、中田自身は、「最後の最後まで鈴木(の作品)を評価している」というところ。
この倒錯関係は、高層ビル屋上における三つ巴四つ巴の最終決戦において、鈴木に奇妙な役割を与えることになる。
鈴木自身もDQNに追い詰められてクレーンの頂上に至るという絶体絶命の危機ではあるが、一方で、向かいの屋上で繰り広げられている、中田派と浅田派、クルス派とその分派たちの戦いに対して、銃による狙撃で介入することになる。
生殺与奪権を得たということは、ある意味、鈴木は、「神の力」・・・・というか「神の立場」を手に入れてしまった。
そこで、「どうせ死ぬなら… 誰かを救いたい…」と言い、屋上で繰り広げられている戦闘の経緯を知らぬまま、そして、戦っている人物が顔馴染(嫉妬の対象)の中田であることも分からずに狙撃をしてしまう。
中田は、お腹の中にあった鈴木の著作物で助かり、さらに、それを白旗の代わりに掲げる。鈴木としては、自らの唯一の単行本が掲示されたことに驚き、次弾を放つことはなかった。
二人は面識がありながら、この一連のシーケンスにおいて、互いを認識することなく終わる。
鈴木の著作物が自らを助けてくれた中田は、もとより彼の才能を認めていたが、この件を経て、いっそう崇敬の念を深くしたと思われる。
神
鈴木は図らずしも「神の立場」に置かれることになったが、この「アイアムアヒーロー」という物語においては意識的に神格化を謀っていたのが浅田という男。
彼は、浅田教なる宗教を立ち上げて、その経典の執筆を中田に依頼している。
それによって出来上がったものは、鈴木がかつて話していたプロットを元にした漫画であり、浅田は「騙されたってわけね…」とつぶやいている。
浅田の立場からすれば、確かに「騙された」なのだが、存外、中田にしてみると、大真面目に経典として描いていたのかもしれない。
少なくとも、彼は「浅田」と「鈴木」という二人の神を天秤にかけて、「鈴木」を選んだわけで、そのおかげで、都内から離島に脱出することに成功している。
選択としては正しく、だからこそ、離島では、鈴木原案の漫画(経典)を書き続けているわけだ。
まごころを、誰に?
さて、「アイアムアヒーロー」を読み終えて、真っ先に思い出したのは、「エヴァンゲリオン」。それも旧劇場版。
出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を完全な単体としての生物へと人工進化させる補完計画。によって、碇シンジをヨリシロにして、全人類が一つになろうとする。
しかし、「もう一度みんなに会いたいと思った」というシンジの願いで、補完計画は、結局、破綻してしまう。
そして、海岸に残された、シンジとアスカの二人。
彼らだけが「新世紀」のアダムとイブとして世界に産み落とされたのか、それとも、たまたま二人が隣り合って再生しただけでなのかは分からないが、シンジにとっては、もっとも身近な、親しいパートナーとしてアスカ(一部、綾波を取り込んで)が選ばれた。しかし、パートナーというものは、距離が近いだけに、もっとも傷付け合う人間でもあり、だからこそ「もう一度みんなに会いたいと思った」と言いながらも、首に手をかけて絞殺の手前まで行くが、そんな彼に対して、アスカは奇妙な労りで彼の腕をさすり「許し」を与える一方で、また「気持ち悪い」と「断罪」もする。
コニュニケーションの「痛さ」を象徴とするラスト。
で、エヴァンゲリオン旧劇場版の公開から20年、インターネットの普及で、人類は、より国境を意識せず、コスモポリタンな視点を持ち得るのかと思ったら、むしろ個々人はタコツボ化し、社会は分断してしまった。
「アイアムアヒーロー」でも、一つの生命体として合一を図りながらも、旧作の「エヴァンゲリオン」と同じで、主人公は、最終的には「個」として生きることになる。
しかし、「エヴァ」においては、主人公の「希望」としての「個」は、「アイアムアヒーロー」においては、パートナーからの拒絶&温情という処置によって、単に取り残されてしまっただけ。
さらに残酷なのは、そのような事情が裏側にあることを、鈴木は知らない。
同じく、偶然にしろ、嫉視の対象であった中田を救ったことや、その彼から、「神」的な扱いを受けていることからも、鈴木は排除されてしまっている。
そして、1人、文明の崩壊した都市で、孤独を強いられる。
誰に求められるわけでもなく、誰から承認されるわけでもなく、絶望的な世界で一人で、ただただタフに生きていくことだけが必要であり、そして、鈴木の逃避を肯定してくれた「矢島」が出てこないのは、最早、現実を受け入れてしまっている証左。
物語のラスト間際では311の地震にも見舞われるものの、やはり、鈴木は一人で、震災と向き合うしかない。
旧劇場版「エヴァンゲリオン」においては、まだ「パートナー」というものが求められていた。
しかし現在では最早、あらゆる現実は、「世界の理(ことわり)」などとは関係なく、他者など介在させず、ただただ一人で対峙すべきであり、それこそが作者が望む「ヒーロー」なのだろうが、まぁなんつーか、近代が生んだ「寂しさ」は、もうここまで到達してしまったんだね・・・・・・。