2017年5月31日水曜日

ネタバレ -「アイアムアヒーロー」を振り返ってみよう-

アマゾン大荒れ

「アイアムアヒーロー」。

大泉洋さん、有村架純さん、長澤まさみさんといった人気キャストで実写映画にもなりました。

2010年代の漫画を代表する作品の一つと、もう言い切ってもいいのではないでしょうか?(連載開始は、2009年みたいですが)


で、先日、無事最終回を迎えたのですが・・・・・・。

最終巻を読み終えた、僕の感想は、「えっ?」。
これで終わったか・・・・・・、と、正直、唖然。(唖然とはしましたが、まぁ、コレはコレでとは思います)

こういう読後感を持ったのは、僕だけではないようでして。

最終巻が発売された「アイアムアヒーロー」の『Amazon』レビューが大荒れ - エキサイトニュース

大荒れになったということは、良く言えば「読者の予想を超えた」、悪く言えば「ファンの期待を裏切った」。

既存の作品にありがちなラストに堕してしまうことはなかったものの・・・・・・・、それだけに、いろいろと問題を内包しているのも事実。


タイトルの「アイアムアヒーロー」。
一巻から読み直してみると、主人公の鈴木英雄は、「アイアムアヒーロー」と何度もつぶやいているんだけど、それは物語の序盤に集中している。

腰抜け、度胸なし、一度は漫画の連載を持っていたが、今は人に使われるアシスタントの身。当然、金もない。

そんな、「物語の主人公」ではあるが、「人生の主人公」とは自認できない境遇が、目標として、「アイアムアヒーロー」と口にさせている。

読者としては、情けなかった鈴木が成長し、紆余曲折を経て「ヒーロー」になるラストが待ち構えていると、どこかで想定(期待)していたのでは?

事実、中盤以降、「アイアムアヒーロー」と口にすることが無くなったのは、圧倒的なカタストロフィの中で、まだまだ不甲斐ないながらも、自らの立ち位置を得たことが影響していると思われ、それは、鈴木の妄想の産物である「矢島」が登場しなくなった&別れを告げたことからも分かる。

その延長線上で、比呂美を救出する為に、危険な東京に戻ることを決意しており、読者としては大団円が待ち構えているのではないだろうかと、当然考えたわけですが・・・・・。

が、結果としては、救い出せないだけではなく、一見すると、「えっ、鈴木、何しに行ったの?」という活躍未満で終わってしまった。

壮大な肩透かし・・・・・・。

ヒロイン


作者の意図はどうあれ、多くの読者からすると、鈴木はヒーローになることなく終わってしまったと感じたのでは?

まぁ、確かに、鈴木の愛した女性が、この物語では三人登場するが、全員がバッドエンド。
ひどい話ではあるが、二人の死を土台にして、三人目の女性を救えたのならまだ救いもあろうが、それすら叶わない。

そもそも、救えなかっただけではなく、一巻で登場する最初の女性:黒川徹子(通称:てっこ)は、ZQN化しても鈴木を守ろうとしており、二番目のヤブにしても、自らの妹を通じて、クレーンの上に追い詰められた鈴木を援護している。

そして、ヒーローを想起させる名前からも分かるように、メインヒロイン、または鈴木のパートナーとしての位置を占めていた第三の女性である「比呂美」。

彼女との出会いによって、鈴木はかつての恋人「てっこ」の遺品(歯)を喪失してしまう。
また第二の彼女であるヤブを間接にしろ直接にしろ手を下したのも比呂美であり、その二つを「継承」と見るか、それとも「断絶」と見るかは人によって違うだろうが、少なくと、彼女が、鈴木にとって特別な位置を得ているのは間違いない。

その彼女は、最終的には、「この男は生きている方が勝手に苦しむから生かしておいて…」という思いでもって、彼をZQN化させて合一することなく、逃がす。

母性による救済、恋人としての温情にも思えるが、その結果として、鈴木は、文明の滅んだ都市に一人取り残され、一方の「比呂美」自身は、合一したZQNたちと一緒になり、動きを止めてしまっている。
作中においては、鈴木が線香を上げているところからすると、生物的な「死」を迎えているようであり、もしかしたら、SF的な飛躍で、新しい生命体として生きている可能性もあるのかもしれないが、少なくと普通の人間が認知、または交流できる存在ではない。

二人の彼女を受け継ぐ、または断絶を図り勝ち残った比呂美から、鈴木は、それが温情にしろ、「拒絶・追放」されてしまう。

そもそも、比呂美は、希死念慮までは行かなくても、自らの人生に、抜き差しならぬ「寂しさ」をかかえた人間。
その「寂しさ」を、鈴木が癒せていたのなら、このような結末は迎えなかったのであるが、まぁーねー、途中で、比呂美を兵器として利用していたもんなぁー。
結局は彼女を救うことは出来ず、その結果として、彼氏である鈴木と一つになることを「拒否」しつつも、その命を「救助」するという、優しくも酷い行為に結実してしまった。

まぁ、この一件からすると、鈴木は「ヒーロー」という境地には到達出来なかったと言わざる得ないわけでして・・・・・・。

ヒーロー


一方で、作品内において、鈴木のライバル的な役割(ライバルというよりは好対照と言うべきか?)を担う、中田コロリ。

鈴木の恋人「てっこ」の元カレであり、売れっ子の漫画家。
才能もあり、女も金も苦労していない、鈴木からすると嫉妬するしかない対象。

ZQNがはびこる社会においても、エキセントリックな性格のまま、その環境に対応してしまっているだけではなく、周囲の人間たちからは頼られてすらいる。

そして、最終的には東京都心から脱出することに成功して、離島で漫画三昧という生活を送っている。
明言はされていないものの、もしかしたら子供ももうけている。
(おばちゃんは、中田に好意を寄せていた半感染の女兵士にいったん飲み込まれることで若返っているから、おそらくは彼女の意思を取り込んでいると思われる。だから、中田の子である可能性は高い)

「ヒーロー」的な役割は、終始変わらないだけでなく、仲間にも(家族にも)、さらには仕事にも恵まれたハッピーエンドを迎えている。

主人公のはずの鈴木とは、真逆。

中田


しかし、単純に「ヒーロー」的な立ち位置を奪われたというわけではないのは、中田自身は、「最後の最後まで鈴木(の作品)を評価している」というところ。

この倒錯関係は、高層ビル屋上における三つ巴四つ巴の最終決戦において、鈴木に奇妙な役割を与えることになる。

鈴木自身もDQNに追い詰められてクレーンの頂上に至るという絶体絶命の危機ではあるが、一方で、向かいの屋上で繰り広げられている、中田派と浅田派、クルス派とその分派たちの戦いに対して、銃による狙撃で介入することになる。

生殺与奪権を得たということは、ある意味、鈴木は、「神の力」・・・・というか「神の立場」を手に入れてしまった。

そこで、「どうせ死ぬなら… 誰かを救いたい…」と言い、屋上で繰り広げられている戦闘の経緯を知らぬまま、そして、戦っている人物が顔馴染(嫉妬の対象)の中田であることも分からずに狙撃をしてしまう。

中田は、お腹の中にあった鈴木の著作物で助かり、さらに、それを白旗の代わりに掲げる。鈴木としては、自らの唯一の単行本が掲示されたことに驚き、次弾を放つことはなかった。

二人は面識がありながら、この一連のシーケンスにおいて、互いを認識することなく終わる。
鈴木の著作物が自らを助けてくれた中田は、もとより彼の才能を認めていたが、この件を経て、いっそう崇敬の念を深くしたと思われる。


鈴木は図らずしも「神の立場」に置かれることになったが、この「アイアムアヒーロー」という物語においては意識的に神格化を謀っていたのが浅田という男。

彼は、浅田教なる宗教を立ち上げて、その経典の執筆を中田に依頼している。
それによって出来上がったものは、鈴木がかつて話していたプロットを元にした漫画であり、浅田は「騙されたってわけね…」とつぶやいている。

浅田の立場からすれば、確かに「騙された」なのだが、存外、中田にしてみると、大真面目に経典として描いていたのかもしれない。

少なくとも、彼は「浅田」と「鈴木」という二人の神を天秤にかけて、「鈴木」を選んだわけで、そのおかげで、都内から離島に脱出することに成功している。
選択としては正しく、だからこそ、離島では、鈴木原案の漫画(経典)を書き続けているわけだ。

まごころを、誰に?


さて、「アイアムアヒーロー」を読み終えて、真っ先に思い出したのは、「エヴァンゲリオン」。それも旧劇場版。
出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を完全な単体としての生物へと人工進化させる補完計画。
によって、碇シンジをヨリシロにして、全人類が一つになろうとする。
しかし、「もう一度みんなに会いたいと思った」というシンジの願いで、補完計画は、結局、破綻してしまう。

そして、海岸に残された、シンジとアスカの二人。

彼らだけが「新世紀」のアダムとイブとして世界に産み落とされたのか、それとも、たまたま二人が隣り合って再生しただけでなのかは分からないが、シンジにとっては、もっとも身近な、親しいパートナーとしてアスカ(一部、綾波を取り込んで)が選ばれた。しかし、パートナーというものは、距離が近いだけに、もっとも傷付け合う人間でもあり、だからこそ「もう一度みんなに会いたいと思った」と言いながらも、首に手をかけて絞殺の手前まで行くが、そんな彼に対して、アスカは奇妙な労りで彼の腕をさすり「許し」を与える一方で、また「気持ち悪い」と「断罪」もする。

コニュニケーションの「痛さ」を象徴とするラスト。


で、エヴァンゲリオン旧劇場版の公開から20年、インターネットの普及で、人類は、より国境を意識せず、コスモポリタンな視点を持ち得るのかと思ったら、むしろ個々人はタコツボ化し、社会は分断してしまった。

「アイアムアヒーロー」でも、一つの生命体として合一を図りながらも、旧作の「エヴァンゲリオン」と同じで、主人公は、最終的には「個」として生きることになる。

しかし、「エヴァ」においては、主人公の「希望」としての「個」は、「アイアムアヒーロー」においては、パートナーからの拒絶&温情という処置によって、単に取り残されてしまっただけ。

さらに残酷なのは、そのような事情が裏側にあることを、鈴木は知らない。

同じく、偶然にしろ、嫉視の対象であった中田を救ったことや、その彼から、「神」的な扱いを受けていることからも、鈴木は排除されてしまっている。

そして、1人、文明の崩壊した都市で、孤独を強いられる。

誰に求められるわけでもなく、誰から承認されるわけでもなく、絶望的な世界で一人で、ただただタフに生きていくことだけが必要であり、そして、鈴木の逃避を肯定してくれた「矢島」が出てこないのは、最早、現実を受け入れてしまっている証左。

物語のラスト間際では311の地震にも見舞われるものの、やはり、鈴木は一人で、震災と向き合うしかない。

旧劇場版「エヴァンゲリオン」においては、まだ「パートナー」というものが求められていた。
しかし現在では最早、あらゆる現実は、「世界の理(ことわり)」などとは関係なく、他者など介在させず、ただただ一人で対峙すべきであり、それこそが作者が望む「ヒーロー」なのだろうが、まぁなんつーか、近代が生んだ「寂しさ」は、もうここまで到達してしまったんだね・・・・・・。


2017年5月28日日曜日

映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」


心臓病を患いながらも、仕事を探さなくてはいけなくなったダニエル。
ひょんなことから(←便利な言葉)、シングルマザーのケイティと知り合い、彼女と親しくなる。
必死に生きようとする二人の日常を通して、(イギリス)社会の福祉の欠陥が暴かれていく・・・・・。


直前に見た映画が「ムーンライト」でした。

そんなに複雑ではない筋立てでしたが、大胆な三章構成、それと連関して三色のフィルターによって色分けされたポスター、カメラワークの不安定さで主人公の不安定な心理状態を表現し、実験的に音楽を使い、・・・・・・まぁ、なんつーか、物語自体はシンプルだけど「ほれほれ、解釈しなはれ」と言わんばかりのクリエイターの思惑がグイグイと前乗りでやってくるような映画でした。

だからこそ、アカデミー賞を取れたのでしょうけど。


で、「わたしは、ダニエル・ブレイク」。

「ムーンライト」では、冒頭からグルグルと回る映像に酔いそうになりましたが、こちらは、どっしりと構えた絵。
癖はあるけど、情に厚いという共感度の高い主人公と、それを裏付ける役者の演技。
一本筋の通った物語。

殊更にまどろっこしい手法などはなくとも、シンプルであるからこそ、製作者の主張が直球で伝わるわけで。(別に「ムーンライト」が悪い作品というわけではないけど)

エンドロールも、昨今では珍しいくらいに短く、「映画の本質」というか、「物語の本質」とは何かを感じさせてくれる作品でした。


・・・・・しかし、国家の酷薄な福祉政策を指弾する映画なのに、「文部科学省特別選定作品」というのは、なんつーか、「いいの?」と思わないでも。

「あれはイギリスの話で、日本は関係ねーし」ということなのでしょうか・・・・・。


追記

加計学園問題が大きくなる直前に、前川喜平前文科次官の出会い系バー通いが暴露され、安倍さん嫌いの人は、「こんな姑息な手段を使いやがって」と、より安倍さんを嫌いになり、安倍さん好きの人は、「ほーれ、出会い系バーなんかに通うような人間なんて、たかが知れている」と、より安倍さんのアレなところを意図的に見落とすという、大変心温まる展開になっており、さすが「昭和の妖怪」と呼ばれた男のお孫さん、こりゃ、「平成の妖怪」になりつつあるのか? などと思ってしまいますが、その前文科次官が出会い系バーに通った理由が貧困調査と主張しているわけで、「わたしは、ダニエル・ブレイク」を文科省が推すのも一応筋が通っているね。

I, Daniel Blake
by カエレバ

2017年5月27日土曜日

映画「ムーンライト」



「ラ・ラ・ランド」との作品賞一騎打ちに勝ち残った「ムーンライト」。近所で公開されたので、見てきました。

昨年度のアカデミー賞が人種的な偏りがあると批判され、さらに今年はトランプ大統領の治世下という、いろいろと微妙な要因があって、「黒人」で、かつ「ゲイ」という、二重のマイノリティを扱った本作が勝ち得たのではないか? などとも分析されていましたが・・・・・、うーん、「あるかもね」というのが、正直な感想。

「ラ・ラ・ランド」なんかは、オープニングからして「楽しい映画ですよ~」という高揚感が画面から大いにあふれていましたが、こっちは、絶えずパトカーのサイレンが鳴っている住宅地でのヤクの売人の日常からという心躍るスタート。

以降も、「ほっこり」「にっこり」エピソードは皆無。

「タフでなければ生きていけない。 優しくなれなければ生きている資格がない」とは、フィリップ・マーロウの名言ですが、つっぱることが男の、たった一つの勲章というタフな黒人男性社会が、映画の舞台。
そんな中で、ほっそりとした気弱な黒人男性が主人公。

で、彼の幼年期、少年期、青年期が、それぞれ描かれています。


「芸術的」とか「作家性の強い」作品にありがちなことですが、けっこう淡々と進むんだよね。
の割には、過剰な説明を排して、作品から「送ってもらう」というよりも、受け手が「お迎えに行く」必要が多かったりします。

今作「ムーンライト」にしても、ヤクの売人は、なんであんなに親切なんだろうね?
もちろん、母子家庭の主人公にしてみると、売人が父親的役割を担っているのは分かるし、それは逆に、売人からすると主人公は息子的な立ち位置。

でも、タフに生きているはずの売人が、ゲイかもしれない子供に、あそこまで理解ある態度を示すのは、なんか不自然に思えてしまう。
そこに理由が見つけられないんだよね。

まぁ、推測するに、「どう生きるかを決めるのは 自分自身」と主人公にアドバイスを送っているのは、逆に言えば、「この子は、自分の人生の決定権を握ることはないのではないか?」という危惧であり、それはヤクの売人などという仕事に就いている自らへの悔悟であり、そして、主人公に、自分の過去を重ね合わせてしまい、そうはなって欲しくはないという希望からの、愛情だったのかな?

で、その希望はかなえられることはなく、むしろ最悪な形で裏切られるわけで、むしろ、彼の危惧は的確であったという皮肉が、「青年期」になってあらわになる。

かつては気弱だった子供は、自分を守る為にタフな男に変貌しているのだが、まぁ最終的には、過去の優しを取り戻してハッピーエンド、ということなんだが・・・・・・。


ちょっとネタバレだけど、旧友がレストランにて音楽をかけるシーンは、もう告白しているようなものなのだが、それからも、なかなか距離が縮まらないんだよね。

「おいおい、なんだよ、童貞かよ?」と思ってしまうけど、・・・・・体格はいかついものの、結局、彼の根っこは、かつての繊細な神経のまま。
童貞みたいなもの。

ラストのセリフだって、「男と男」のカップルだから、一見新鮮に思えるけど、これって、「男の女」に置き換えれば、派手好きなギャル系の女性が、「あんたに処女を捧げてから、他の男とは寝てない。ずっと操を守ってきた」と言っているようなもんだよなー。

そして、相手の男からの連絡だって、言うなれば、「クソメール」だよな。(google検索「クソメール」)
「今はパートナーがいねーし、なんか物寂しいし、ムラムラもするから、昔の女でも呼び出して、イッパツやらせてもらうか」っていう発想と大差ないよな。

格調高く描かれているので、騙されてしまうけど。


まぁ、かつては「男と女」という設定でなければ成立しなかった物語も、今では「男と男」でも、こうして十分に成立するわけで、そういう意味において、アカデミー賞作品賞受賞というのは象徴的ですな。

ムーンライト
by カエレバ


















2017年5月26日金曜日

幸福の科学が送る実写映画「君のまなざし」 -ラストはスタンディングオベーションで-



近くに幸福の科学の教団施設がありまして、映画が公開される度にチケットを 置いていく いただく機会があるのですが、「君のまなざし」も、ありがたくちょうだい。

幸福の科学と言えば、大川隆法総裁の霊言。
最近は、巷で流行しているモノを、真っ先に 飛びつく 取り入れて、大衆にも分かり易く教えを説いています。

そして今作のタイトルは、「君のまなざし」。
まさかと思うが・・・・・、「君の名は。」をパクって からインスピレーションではないよ・・・・・な? と少々心配でしたが、最終的に見終わった感想としては・・・・・すいませんでした。全然違う。

ジュブナイル映画の王道であり、最終的には少年と少女が結びつくのが「君の名は。」ですが、「君のまなざし」は、最初は、青年とヒロインがくっついて終わりかな? という予想を大いに 悪い意味で 良い意味で裏切ってくれ、女は去り、代わりに主人公は友情を取り戻すという、なんとも ホモソーシャルな 硬派な終わり方。

そもそもだ。

チケットと一緒にもらった小冊子で、大川隆法総裁のご子息である大川宏洋氏が脚本だけではなく映画の中で俳優として登場という、「目指せ! ウディ・アレン」なのは知っていましたが、「まぁ端役だろうなぁ。せいぜい、狂言回し程度だろう」との予想は大いに 良い意味で裏切ってくれまして、超重要な役どころ。

と言うか、途中、明らかに主役は、大川宏洋氏。

だからこそ、主人公は女性と結ばれるのではなく、大川宏洋氏との友情が復活というオチなんでしょうねー。

そもそもだ。

いったんは悪の道に落ちた大川宏洋氏が、主人公との戦いを経て、自らの父親と和解をするという過程は、まさしく家庭を描いているということなのか?

となると、ヒロインの子は、実母である大川きょう子氏を指しているわけで、一見すると、幸福の科学の教えを 安っぽく 平易に説いている物語のようで、実は、親子や夫婦の愛憎について語っている、大変に奥行きの深い作品なのかもしれないですね・・・・・・。


まぁ、異教徒からすると、そんな妄想をたくましくするしかない、相変わらずの幸福の科学映画でした。

川で溺れる子を助けて、代わりに主人公は犠牲になるという冒頭からして、「いくらチケットがただでもらえたからと言って、なんで、これを二時間見ないといけないんだ!?」と自問自答したくなるクオリティーで、以降、低予算が見え見えの特殊効果の連続、・・・・・・無理なら無理で脚本でカバーすればいいのだろうが、スポンサーの意向に逆らうわけにもいかず、こんな映画が出来上がっちゃうわけなのだが、逆に言うと、玄人がつくろうと思ってもつくれないような作品に仕上がっているのは事実。

そういう意味においては、大変に見応えがありました。

だって、大川隆法総裁が入滅後は、大川宏洋氏が組織を引っ張っていくんでしょ?
そんなサラブレッドの 怪演 好演が拝めるなんて、なかなかない機会ですよ。
(創価学会も、是非、見習って欲しいものです)


そして、二時間の修行を経て始まるエンドロール。
「いやー、本当に見応えがあったなぁ」と自らを慰めていると、聞こえてくる歌が、・・・・・まぁ 微妙 絶妙。

「これって、もしかして!?」と思っていたら、案の定、歌「大川宏洋」。
脚本、出演、そして音楽。

クリント・イーストウッド級ですよ。
いやー、見応えだけではなく、聴き応えまであるとは・・・・・。
恐れ入りました。

「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション(早期購入特典:特製フィルムしおり付き)
by カエレバ

2017年5月5日金曜日

ベトナム戦争の延長戦「キングコング: 髑髏島の巨神」


「キングコング」ですが、敢えて「スカルランド」ではなく、「髑髏島」という、B級センス抜群のサブタイトルから想像できる通りの映画でした。

オープニングから出し惜しみなく「キングコング」が大暴れで、その後、島に乗り込むまではちょっとダレましたが、上陸以降は様々な怪物が出てきて、登場人物たちは、「不誠実な人間は死ぬ」「誠実な人間は生き残る」というお約束通り、観客が期待しているモノを、ちゃんと提示した作品でした。

ただ、ちょっと不思議だったのは、パッカード大佐の扱い。

人望厚い優秀な指揮官だけれども、彼が部下の救出を申し出ると、誠実な人間として描かれている主人公サイドが反対するわけで、普通なら逆に描かれそうですが。

パッカード大佐はベトナム戦争を引きずっている男で、キングコングとの戦いは、勝つことの出来なかった戦争の延長戦。
そこに拘泥する人間は、「不誠実」の烙印を押されてしまう。

一方、第二次大戦時、日本人と命の奪い合いをしていたマーロウ中尉は、既に敵と和解している。「誠実」側の人間として、最後は、自宅のテレビで、のんびり野球観戦という「褒美」が待っている。

この構図って、今のアメリカの内向きだったり、厭戦気分を反映しているのかな~? などと思いました。


で、まぁ、おまけの感想だけど、今作も、無理やりアジア人(中国人)が出演していたね。
ポリティカルコレクトのアリバイ拘束というか、中国市場への配慮というか。

「とりあえず、水着ギャルでも置いとけ」的な、バブル期の日本のテレビ番組を彷彿とさせるような、やっつけ感バリバリの配役は、逆効果な気がしますが・・・・・。


by カエレバ