クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」を見てきました。
面白かったです
「ジャージー・ボーイズ」もちょっと前に公開されたばかりで(未見ですが、好評だったみたい)、さらに、「アメリカスナイパー」。
もう80才超えているのに、なんで、そんなに精力的なの? と不思議です。
まぁスタッフが強力なんだろうな~
(その強力なスタッフを、まとめ上げられる能力と人望が、監督にあるのだろうけど)
で、ストーリー。(ネタバレ)
冒頭、イラクでの狙撃シーンから始まりますが、そこは、ちょっとだけ。
一気に物語は、主人公のクリス(山のフドウを実写化するなら、この人だと思う)の幼少時代へ。そこからは時系列に進みます。
象徴的だな~と思ったのは、子供のころに、父親から「羊となって無抵抗主義もダメ、だが、狼となって人をイジメめるのもダメ。誰かが傷つけられた時に、その人を守る番犬になれ」てなことを言われるシーン。
まぁ、「男の生き様」を父が息子たちに教えているんだけど、これを聞いている母親が、ちょっと一歩引いた感じの顔なんだよね。
「THE 男の論理」。
結局、その論理って、アメリカ・マッチョの思想なわけでして。
(そして、クリスの家族、特に奥さんは、この思想・論理に、ずっと振り回されることになる。)
で、大きくなった息子たち。
軍に志願する前は、カーボーイをして暮らしている・・・・・・と言うと聞こえがいいけど、まぁ、牧場の使用人でして、町で祭りがあると、そこで暴れ馬を乗りこなして入賞という、朴訥な人生を歩んでいる。でも、満足しているわけではない。
このカーボーイっていうのも、アメリカ的だね。
そもそもタイトルが「アメリカン・スナイパー」。
「アメリカの狙撃手」という、一見するとなんでもないけど、よーく考えると、意味深。
アメリカ本国では、この映画は英雄賞賛なの? 反戦なの? という戸惑いがあったようですが、確かに、難しい。
前述のように、冒頭のシーンからして、アメリカ文化に内在する暴力性(どこの国にでも、ある程度あるけど、アメリカの場合は、何年かに一度、必ず戦争があるから、それが肯定されてしまう&肯定しなくてはいけないというご事情があったりして、まぁ複雑ね)を描いているわけでして。
「困難に立ち向かった英雄の物語」であることは事実だけど、「人間性を、国家と戦争によってズタズタにされた物語」であるのも確かなわけでして。
マッチョな「男の論理」の美しさと、危うさ・・・・・。
作品の内容にしろ、その評価にしろ、なんで、こんな風になってしまうんだろう? と考えると、結局、イラク戦争の評価が、未だに定まらないからだろうな・・・・・。
「主人公は極悪なテロリストと対峙している」はずなんだけれども、その戦場は、戦争で荒廃した
イラク。
そこで生活をしているイラク人は、いくら戦火で荒れ果ててはいても、その土地に馴染んでいる。
それに比べて、アメリカ軍は異質な存在。どこまでいっても、侵略者・・・・・とまでいかないにしても、部外者であることには変わりない。
コンクリートに囲まれた基地から、出動するシーンが何度も映画には登場するけど、彼らが、彼の国にとって招かれざる客であることを象徴しているわけでして。
兵士たちは、国家の意思(男の論理)によって、そこで戦っているわけなんだけど、「彼らは、こんなに苦労しているけど、いったい何の意味があるんだ?」という疑問が、観客からすると、当然、拭い去れない。
映画の中でも、イラク戦争自体に、賛否の表現はないです。
例えばブッシュ大統領が「大量破壊兵器を隠し持っているので戦争を始める」と発言しているニュース映像の一つも流せば、「イラク戦争は不義の戦争であったと認めているんだな」と観客は思うだろうけど、そんなシーンは皆無。
また、逆に、アメリカ軍に感謝するイラク人を登場させれば、「あの戦争は、暴君から民衆を解放した義戦だったんだ!」という意見表明になるのだろうけど、やっぱり、そんなシーンはない。
つまり、「イラク戦争」自体は、まぁ映画の舞台に過ぎず、その賛否は、勝手にやって下さい、ということ。
でも、その困難な状況下においても、一人の兵士が、必死に戦っていたことを、時々でいいから、思い出して下さい、ということなんだろうなー。
クリント・イーストウッドの戦争映画だと、他には、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」。
アメリカにとって「栄光の太平洋戦」が舞台。
そこで、報われなかったアメリカ軍兵士と、雄々しく戦った日本軍兵士を描くという、ある意味では価値の逆転を図っているんだけど、でも、一兵士の現実と悲しみを描いているという点では、今作と、同じなのかな?
アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) | ||||
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