2017年6月19日月曜日

「スウィート17モンスター」



「スウィート17モンスター」、見てきました。

原題は、「The Edge of Seventeen」。
どう訳すんでしょう?
「17才のギリギリ」って、感じでしょうか?

いずれにせよ、「17」という主人公の年齢がタイトルに入っていることには、変わりなし。

なんとなく、アンジェリーナ・ジョリーが若かりし頃に出演した「17才のカルテ」を思い出しました。

「JUNO」の主人公も同じくらいかな? と思って調べたら、16才から始まるそうです。

このくらいの年令の少女というのは、アメリカ人には、なにか抜き差しならぬ感情を呼び起こすものなんですかね?

日本では、俗に「中二病(14才)」という言葉ありますが、アメリカでは「高二病」ってことでしょうか?

梗概


そういうどうもいいことは、さておき。

ストーリーですが、・・・・・・学校(集団)にまったく馴染めないタイプのネイディーン。唯一の友人であるクリスタと一緒に、モテナイ女子を、すっかりこじらせてしまっている。

つまらない日常ではあるが、理解者が近くにいる・・・・というか、似たような境遇を持つ友人がいるうちは、ネイディーンもどうにかこうにかやっていけていたものの、その友人が、彼氏をつくってしまう。

しかも、ネイディーンが大嫌いな兄貴とくっついた、というのだから、我慢がならない。
この状況を、どうにかしようと、もがくのであったが・・・・・・。

可愛げのないトラブルメーカー


以下、ネタバレあり。

集団や組織に溶け込めない苛立ちというのは、まぁ、よーく理解できるタイプの人間です。
だから、共感できそうなものなのだが、正直なところ、主人公のネイディーンには、終始、イライラを覚える。

「自分がオッサンになってしまった」割には、子供もいないので、「若者の青さを愛でる」という余裕がないことも理解しつつも、・・・・・・しかしだな。

ネイディーンが、あんまりにもトラブルメーカーでね。

「普通の人」たちと、普通のコミュニケーションも出来ないのは、まぁ、よろしい。
だけれども、その反動として、「自分を許容してくれる人」 or 「自分との関係を断ち難い人」(「家族」「教師」「親友」)に対しては、遠慮のない言葉を発してしまうのは、十代の子供としては、「リアル」ではある。

でも、「リアル」なだけに、なんとも、気持ちが良いものではなかった。


病気で旦那を亡くした母親は、シングルマザーとして、二人の子供を育てようと必死になっているのに、そんなことは娘にはお構いなし。(←これもまたリアルではあるのだけれども)

また、彼女が大嫌いな兄貴にしても、登場時は、「いけ好かないリア充タイプかな?」と思ったら(少なくとも、妹は、そう思っている)、友人たちの「おイタ」の後片付けも別段怒ってはいないし、すっかりひねくれた妹であってもパーティーに連れ出すような面倒見の良さ。だから母親にも頼られているし、飲み会を中座しなくていけない場面では、友人たちから惜しまれており、物語においては往々にして、リア充は嫌味な人間として描かれ勝ちですが(もっとひどいと、「リア充」=「スーパーフリー」になっている)、実際には、「衣食足りて礼節を知る」でして、満たされている人間は、優しかったりするよね。

つまりは、妹の評価とは真逆で、兄貴というのは、ナイスガイ。
そりゃ、親友も惚れるわな。


最終的には、「自分だけ不幸だと思うなんて、スゲェ~痛いよね」ということで、他人を受け入れることができるかも? という落着で大団円。

・・・・・なんだけれども、オッサン的には、やっぱり納得がいかない。


結局、最後の最後まで、ネイディーンは他人頼み。
自分から能動的に行動することはない。

それで、まぁ、大人しいというならまだしも、身近な人間を好きなだけ振り回しておきながら、「世界で一番私が不幸」って顔しているのだから、困りモノ。

偶然にしろ、唯一、自分の力で勝ち取った白人イケメンとの夜も、「えぇー、私、そんなつもりじゃないんだけど」と拒否しているわけで、・・・・・そもそも、お前がお馬鹿なメッセージ送って誘ったんだから、仕方ないじゃん。勝手に傷ついているんじゃねーよ。

で、「人間、顔じゃないね」とばかりに、自分を想ってくれるアジア系の男を選ぶことになるのだが、まぁ、ぶっちゃけ消去法にしか見えない。


そして、これは製作者のミスとしか思えないのが、そのアジア系の少年(青年?)は、金持ちの息子という設定。

クリエイティブな才能があるくらいなら、まぁいいだろうけど、そこに「金」という長所を加えてしまうと、「えっ、なに、容姿で選んで失敗したから、ネイディーン、今度は金?」と意地悪な解釈をしてしまいたくなるわけで・・・・・。


この物語は、「父親」という世間とのハブを喪失した少女の「再生」がキモ。

父親とは唐突な別れではあったが、いつかは無尽蔵な愛によって庇護されている世界から、独り立ちしなくてはいけないのは、誰もが同じ。

大人になることを早くに強いられ、逆に、その愛着ある世界から逃れられなくなってしまったネイディーンが、どうやって大人になるのかが大事なんだけれども、最終的には、自分では、まったく努力なんかしないで、勝手に男が惚れてくれ、しかも、初めて出来た彼氏は仲間内からも一目置かれている上に両親は金持ち。

その彼女という席に収まって、自尊心も満足♪ だから、ハッピーエンド?

父親という無尽蔵に愛してはくれるが支配もしてくる「世間とのハブ」を放棄するのではなく、新しく自分を守ってくれる・保証してくれる男を手に入れて終わりってのは、古色蒼然たる「白馬の王子様願望」でして、・・・・いいのか? これで。

おまけ


ストーリーには、ちょいっと納得が出来なかったものがありますが、映画としては、ちゃんとしているのは、さすがハリウッド。

特に、主役のヘイリー・スタインフェルドが、ちゃんと痛い少女を演じているからこそ、見ているこちらは腹が立つわけで。

hailee steinfeld google画像検索

こうして画像を見れば、美人さんなんですが、映画の中だと、ちゃんと「ちょいブス」なんだよね。(役に合わせて、少し太った?)

それも、ネイディーンがヒステリックに自分勝手なことを主張する場面、つまりは「性格ブス」が発揮されると、映像上でも、ちゃんと「ブス」に映るわけで、ここらへんの表現力は、大したものですなぁ~。


Ost: the Edge of Seventeen
by カエレバ

2017年6月16日金曜日

「牯嶺街少年殺人事件」感想



まぁ、なんとなくはタイトルを知っていた「クーリンチェ少年殺人事件」。

近所の映画館で放映されると聞いたものの、上映時間四時間というボリュームにビビってしまう。しかも休憩なし。
生半可な決意では見れない映画です。朝から水分を控えて、行ってきました。

上映中、全く退屈はしなかったものの、それでも、「今、どれくらい?」と気になって携帯のディスプレイをオンにしてみたら、そろそろ二時間。「ここで折り返しとは、鬼だな・・・・・」とは、思いました。

見終わった瞬間は、「まずまず面白かった」程度の評価。
「どのシーンも、それなりに意味があるのは分かるが、削ろうと思えば、削れるシーンもあるよな。シンプルにしてしまえば、二時間でも収まる気はするけど」などと生意気なことを思っていましたが、・・・・・後々になって、じんわりと効いてくる。

数日が経っても、ふとした瞬間に主人公・小四の少年らしい生硬さが脳裏に蘇り、この映画のことを考えしてしまう。

現実と理想


ストーリーの基軸は、主人公・小四と、ヒロイン・小明の悲恋。

と言っても、「ロミオアンドジュリエット」ではなく、小悪魔タイプの女性に、男が振り回されるという感じ。

小四を演じていたチャン・チェンさんは、当時を振り返って、このように述べています。
僕は当時、リサ・ヤン演じる小明の役柄が本当に理解できませんでした。非常に複雑なキャラクターでしたから。あれから25年経って改めて作品を観て一番感じるのは、より小明のことを理解できるようになったということですね。■Real Sound|リアルサウンド 映画部
まぁね、十代半ばの少年からすれば、「どうして、男(の子)の熱意を、この少女は、理解できない? 信頼しない?」と思ってしまうよなぁ。

非常に悪意のある言葉を用いれば、ヒロインの小明は、「ビッチ」。
実際に多くの男と寝ているかどうかは別にして、その場その場で、一番力のある人間を見つけて、あっさりと懐に飛び込んでしまう。

そんな、(少なくとも精神的な)貞操観念が薄い少女ではある。
若い受け手(観客)であれば、どうしても主人公側に立ってしまうけど、ある程度、年を重ねると、どうしても彼女の生育環境にも目がいってしまうわけで、病気の母がいるけど、どうやら父親はいない。頼るべき親戚も、裕福ではない。そんな状況下、サバイバルの為には、理想など抱いてはいられない。
生きる為には(母を守る為には)、現実と「寝る」必要がある。

言うなれば、リアリストである小明は、現実を評価も肯定もしていないし、受け入れてもいないのだろうが、しかし、それはそれで認めなくては、いけない。諦観している。

その立場は、彼女のラストの言葉、「私を変える気? この社会と同じ 何も変わらないのよ」に如実にあらわれている。


一方で、主人公・小四の、「この世界は僕が照らしてみせる」というキャッチコピーからも分かるように、ロマンチスト。
世界を変えられる・・・・・とまでは思っていないだろうけど、自分の力で、彼女を救えるいう自負がある。

まぁ、しかし、実際問題として、経済力もないティーン・エイジャーが、病気の母を抱えた女性を幸せにできるわけないのだが・・・・・。

光と闇


実際にあった事件を基にした作品であり、犯人が夜間中学校に通っていたのは、事実のようです。

実際の牯嶺街(クーリンチエ)少年殺人事件とはどんな事件だったのか

この物語は、主人公・小四が、中学受験に失敗して、夜間学校に通うことになったシーンから始まります。
つまりは、「昼」から排除されて、「夜」に生きることになるわけです。

台湾という南国が舞台なので、日本の横溝正史映画のような夜ではないものの、昼と対比して、陰鬱であることは否めない。

そして、夜陰に紛れるようにして、不良行為を重ねる少年たち。
時には生々しい暴力も振るわれる。

そういう世界で、小四が、「目の調子が悪い」と、部屋のライトの点滅を繰り返しているのは、彼が、夜の世界に馴染めていないものの、かと言って、昼の世界にいることは許されていないことを示唆している。

光と闇の間にいる中間の存在。大人でも子供でもない、少年期ですな。

そして、この映画のスゴイところは、この象徴的なシーンが、単なる象徴で終わっておらず、小明と出会う伏線になっているんだよね。


また、夜間中学を退学になってしまう際に、主人公が壊すのが電灯。
「夜の世界に生きる主人公の、かすかな未来を、自らで閉ざしてしまった」、または「所詮、昼間には敵わない、教師たちの照らす偽物の光を、少年らしい正義感でもって破壊した」とも解釈できるシーン。

いずれにしろ、電灯を壊す時に、手にするバットは、ちゃんと映画の前半部において教師に没収されてしまったものなんだよ。しかも、自分のではなく、友人のバッド。

このことを、「教師の横暴」とするか、「主人公の自業自得」とするかで、後の退学シーンの解釈にもつながり、また、夜間中学をクビになったことは、主人公を追い詰める一因になっており、こういう連関は、ホントっ、巧みね。
いくら四時間という余裕があるとは言え。

変わらない現実


ヒロインが病身の母親を抱えているという「現実」を背負っているように、主人公も、また別種の「現実」を突きつけられる。

小四の父親は、国共内戦で、台湾に逃げてきた、いわゆる外省人。
そのため、大陸(中国共産党)と通じているのではないかと疑われて、連行されてしまう。

強引に連れ去られたわけではないし、取り調べにしても、暴力を振るわれているわけではない。しかしながら、自分たち(国民党?)に都合の良い答えが出て来るまで続けられる尋問の執拗さ、(おそらくは)法律に基いているわけでもないので、勾留期間がいつまで続くのか分からない不安、そして、先方の気まぐれのような決断であっさりと保釈されてしまう不気味さ。

この連行によって、父親は精神のバランスを崩し、夜間に「怪しい人間がいる」と騒ぎ出したり、母親の腕時計を質に入れてしまった兄貴(冤罪なのだが)に執拗に暴力を振るう。


そういう、夜の「現実」世界に生きる主人公が手にしているのが懐中電灯。
今更、言うまでもないことだろうけど、懐中電灯は、「夜 = 闇 = 暗い現実」を照らす道具。

で、ヒロインの名は、「小明」。
皮肉ですな。

主人公は「彼女の希望となってみせる」と言っているけど、まぁ、逆に考えると、「彼女の希望となることが、彼にとっての希望」。

しかし、彼女という「現実」は、変化を拒否する。
希望の潰えてしまった主人公は、懐中電灯を捨ててしまったように、「現実(小明)」を壊すという対応をせざる得なくなってしまった・・・・・。


で、ラスト。
映画の冒頭と同じく、ラジオからは、昼間部に合格した学生たちの名前が流れている。
彼らは昼間に生きることを許された人間であり、主人公が手にすることが出来なかった世界に生きている。

その対比は酷薄でありつつも、また、壊れてしまった古いラジオから流れてくるというのは、どことなく新しい世界への変革を想起させるものがあり、・・・・・・やっぱり巧みですなぁ。

おまけ


こういう作品を見せつけられると、単なるアイドル映画の枠内に収まってしまった「ホットロード」の実写版は残念だったなぁと、改めて思ってしまうよ・・・・・。

能年玲奈主演「ホットロード」を見たわけだが


A Brighter Summer Day (The Criterion Collection) [Blu-ray]
by カエレバ

2017年6月15日木曜日

映画「22年目の告白 -私が殺人犯です-」


休みでスルこともないので、なんか映画見ようと思ったものの、近くの映画館では気になる作品はない。

消去法で、「22年目の告白 -私が殺人犯です-」を選択。


で、感想としては、うーん、まぁ、邦画だなぁ・・・・・。(元ネタは韓国映画のようですが・・・・・、オープニングでもエンドロールでも、その記述がなかったような?)

大げさな演技と大げさな音楽。

なんだけど、ストーリー自体が、なかなか豪快なので(筋は通ってはいるが、四人目の被害者って?)、そりゃ、演技も音楽も、それに応じた結果。正当な比例とでも言いますか。

そもそも藤原竜也さんが主演だから、まぁこうなるか。


テンポが良くて、ストーリーは明解、どんでん返しも程良くて、好きな人は好きなんだろうけど、個人的には、もうちょっと落ち着いた感じの方が好みだなぁ・・・・・。

by カエレバ

2017年6月11日日曜日

日本人の扱いが、これで大丈夫か? と、ちょっと心配になった「哭声/コクソン」



韓国映画の「アシュラ」も面白かったので、「コクソン」も見てきました。

人口三万人くらいの、「村」ではないが、「町」とも呼び難い過疎が始まっている鄙びた韓国の地方が舞台で、場面場面の情景は、極東の日本と似ているけど、やっぱりちょっと違う。

そんな場所で、次々と起きる不可解な事故や殺人。

主人公の警察官は、その異常さを不気味に思いつつも、偶然だと割り切っていたが、奇妙な初老の日本人の噂を聞いて、徐々に、彼の仕業ではないかと怪しむようになる・・・・・・。

そんな感じのストーリー。


で、ネタバレ。

二転三転するのだけれども、結局、國村隼さんが演じる日本人は悪魔でした、というオチ。

まぁ、日本人の役者が日本人という設定で演じているのだが、なにか「日本人的なモノ」を象徴しているようなシーンもなく、あくまでも、「よそ者」として描かれているに過ぎないし、製作者としても政治的な意図はないのかもしれないが、どうしても日韓の現況を鑑みるに、なんだか深読みしてしまいたくなるのは詮無いこと。

それは、さて置き。

終始ダレることなく、ポンポンとストーリーが進んで、まったく退屈することなく見ることが出来る映画ではあったが、しかし、終わってみると、「うん?」と思うのは、祈祷師対決のシーン。

主人公側だと思われていた祈祷師は、最後の最後で「悪魔の手下でした」というオチだったが、では、あの対決シーンで、國村隼さんが演じる人間の皮をかぶった悪魔は、誰に追い詰められていたの?

また、主人公の娘にしても、誰に苦しめられていたの?
娘には、悪魔に敵対する存在(天使?)が取り憑いていた、ということなの?

ここらへん、なんだか良く分からなかったなぁ・・・・・。
まぁ「何度も観てね!」ということなんだろう。


もう一つ気になったのは、主人公が相棒と一緒に踏み込むシーンで、これまでの被害者の写真を発見してしまうのだが・・・・・、普通に考えれば、あれで事件解決じゃね? と思ったのは、僕だけ?


by カエレバ


2017年5月31日水曜日

ネタバレ -「アイアムアヒーロー」を振り返ってみよう-

アマゾン大荒れ

「アイアムアヒーロー」。

大泉洋さん、有村架純さん、長澤まさみさんといった人気キャストで実写映画にもなりました。

2010年代の漫画を代表する作品の一つと、もう言い切ってもいいのではないでしょうか?(連載開始は、2009年みたいですが)


で、先日、無事最終回を迎えたのですが・・・・・・。

最終巻を読み終えた、僕の感想は、「えっ?」。
これで終わったか・・・・・・、と、正直、唖然。(唖然とはしましたが、まぁ、コレはコレでとは思います)

こういう読後感を持ったのは、僕だけではないようでして。

最終巻が発売された「アイアムアヒーロー」の『Amazon』レビューが大荒れ - エキサイトニュース

大荒れになったということは、良く言えば「読者の予想を超えた」、悪く言えば「ファンの期待を裏切った」。

既存の作品にありがちなラストに堕してしまうことはなかったものの・・・・・・・、それだけに、いろいろと問題を内包しているのも事実。


タイトルの「アイアムアヒーロー」。
一巻から読み直してみると、主人公の鈴木英雄は、「アイアムアヒーロー」と何度もつぶやいているんだけど、それは物語の序盤に集中している。

腰抜け、度胸なし、一度は漫画の連載を持っていたが、今は人に使われるアシスタントの身。当然、金もない。

そんな、「物語の主人公」ではあるが、「人生の主人公」とは自認できない境遇が、目標として、「アイアムアヒーロー」と口にさせている。

読者としては、情けなかった鈴木が成長し、紆余曲折を経て「ヒーロー」になるラストが待ち構えていると、どこかで想定(期待)していたのでは?

事実、中盤以降、「アイアムアヒーロー」と口にすることが無くなったのは、圧倒的なカタストロフィの中で、まだまだ不甲斐ないながらも、自らの立ち位置を得たことが影響していると思われ、それは、鈴木の妄想の産物である「矢島」が登場しなくなった&別れを告げたことからも分かる。

その延長線上で、比呂美を救出する為に、危険な東京に戻ることを決意しており、読者としては大団円が待ち構えているのではないだろうかと、当然考えたわけですが・・・・・。

が、結果としては、救い出せないだけではなく、一見すると、「えっ、鈴木、何しに行ったの?」という活躍未満で終わってしまった。

壮大な肩透かし・・・・・・。

ヒロイン


作者の意図はどうあれ、多くの読者からすると、鈴木はヒーローになることなく終わってしまったと感じたのでは?

まぁ、確かに、鈴木の愛した女性が、この物語では三人登場するが、全員がバッドエンド。
ひどい話ではあるが、二人の死を土台にして、三人目の女性を救えたのならまだ救いもあろうが、それすら叶わない。

そもそも、救えなかっただけではなく、一巻で登場する最初の女性:黒川徹子(通称:てっこ)は、ZQN化しても鈴木を守ろうとしており、二番目のヤブにしても、自らの妹を通じて、クレーンの上に追い詰められた鈴木を援護している。

そして、ヒーローを想起させる名前からも分かるように、メインヒロイン、または鈴木のパートナーとしての位置を占めていた第三の女性である「比呂美」。

彼女との出会いによって、鈴木はかつての恋人「てっこ」の遺品(歯)を喪失してしまう。
また第二の彼女であるヤブを間接にしろ直接にしろ手を下したのも比呂美であり、その二つを「継承」と見るか、それとも「断絶」と見るかは人によって違うだろうが、少なくと、彼女が、鈴木にとって特別な位置を得ているのは間違いない。

その彼女は、最終的には、「この男は生きている方が勝手に苦しむから生かしておいて…」という思いでもって、彼をZQN化させて合一することなく、逃がす。

母性による救済、恋人としての温情にも思えるが、その結果として、鈴木は、文明の滅んだ都市に一人取り残され、一方の「比呂美」自身は、合一したZQNたちと一緒になり、動きを止めてしまっている。
作中においては、鈴木が線香を上げているところからすると、生物的な「死」を迎えているようであり、もしかしたら、SF的な飛躍で、新しい生命体として生きている可能性もあるのかもしれないが、少なくと普通の人間が認知、または交流できる存在ではない。

二人の彼女を受け継ぐ、または断絶を図り勝ち残った比呂美から、鈴木は、それが温情にしろ、「拒絶・追放」されてしまう。

そもそも、比呂美は、希死念慮までは行かなくても、自らの人生に、抜き差しならぬ「寂しさ」をかかえた人間。
その「寂しさ」を、鈴木が癒せていたのなら、このような結末は迎えなかったのであるが、まぁーねー、途中で、比呂美を兵器として利用していたもんなぁー。
結局は彼女を救うことは出来ず、その結果として、彼氏である鈴木と一つになることを「拒否」しつつも、その命を「救助」するという、優しくも酷い行為に結実してしまった。

まぁ、この一件からすると、鈴木は「ヒーロー」という境地には到達出来なかったと言わざる得ないわけでして・・・・・・。

ヒーロー


一方で、作品内において、鈴木のライバル的な役割(ライバルというよりは好対照と言うべきか?)を担う、中田コロリ。

鈴木の恋人「てっこ」の元カレであり、売れっ子の漫画家。
才能もあり、女も金も苦労していない、鈴木からすると嫉妬するしかない対象。

ZQNがはびこる社会においても、エキセントリックな性格のまま、その環境に対応してしまっているだけではなく、周囲の人間たちからは頼られてすらいる。

そして、最終的には東京都心から脱出することに成功して、離島で漫画三昧という生活を送っている。
明言はされていないものの、もしかしたら子供ももうけている。
(おばちゃんは、中田に好意を寄せていた半感染の女兵士にいったん飲み込まれることで若返っているから、おそらくは彼女の意思を取り込んでいると思われる。だから、中田の子である可能性は高い)

「ヒーロー」的な役割は、終始変わらないだけでなく、仲間にも(家族にも)、さらには仕事にも恵まれたハッピーエンドを迎えている。

主人公のはずの鈴木とは、真逆。

中田


しかし、単純に「ヒーロー」的な立ち位置を奪われたというわけではないのは、中田自身は、「最後の最後まで鈴木(の作品)を評価している」というところ。

この倒錯関係は、高層ビル屋上における三つ巴四つ巴の最終決戦において、鈴木に奇妙な役割を与えることになる。

鈴木自身もDQNに追い詰められてクレーンの頂上に至るという絶体絶命の危機ではあるが、一方で、向かいの屋上で繰り広げられている、中田派と浅田派、クルス派とその分派たちの戦いに対して、銃による狙撃で介入することになる。

生殺与奪権を得たということは、ある意味、鈴木は、「神の力」・・・・というか「神の立場」を手に入れてしまった。

そこで、「どうせ死ぬなら… 誰かを救いたい…」と言い、屋上で繰り広げられている戦闘の経緯を知らぬまま、そして、戦っている人物が顔馴染(嫉妬の対象)の中田であることも分からずに狙撃をしてしまう。

中田は、お腹の中にあった鈴木の著作物で助かり、さらに、それを白旗の代わりに掲げる。鈴木としては、自らの唯一の単行本が掲示されたことに驚き、次弾を放つことはなかった。

二人は面識がありながら、この一連のシーケンスにおいて、互いを認識することなく終わる。
鈴木の著作物が自らを助けてくれた中田は、もとより彼の才能を認めていたが、この件を経て、いっそう崇敬の念を深くしたと思われる。


鈴木は図らずしも「神の立場」に置かれることになったが、この「アイアムアヒーロー」という物語においては意識的に神格化を謀っていたのが浅田という男。

彼は、浅田教なる宗教を立ち上げて、その経典の執筆を中田に依頼している。
それによって出来上がったものは、鈴木がかつて話していたプロットを元にした漫画であり、浅田は「騙されたってわけね…」とつぶやいている。

浅田の立場からすれば、確かに「騙された」なのだが、存外、中田にしてみると、大真面目に経典として描いていたのかもしれない。

少なくとも、彼は「浅田」と「鈴木」という二人の神を天秤にかけて、「鈴木」を選んだわけで、そのおかげで、都内から離島に脱出することに成功している。
選択としては正しく、だからこそ、離島では、鈴木原案の漫画(経典)を書き続けているわけだ。

まごころを、誰に?


さて、「アイアムアヒーロー」を読み終えて、真っ先に思い出したのは、「エヴァンゲリオン」。それも旧劇場版。
出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を完全な単体としての生物へと人工進化させる補完計画。
によって、碇シンジをヨリシロにして、全人類が一つになろうとする。
しかし、「もう一度みんなに会いたいと思った」というシンジの願いで、補完計画は、結局、破綻してしまう。

そして、海岸に残された、シンジとアスカの二人。

彼らだけが「新世紀」のアダムとイブとして世界に産み落とされたのか、それとも、たまたま二人が隣り合って再生しただけでなのかは分からないが、シンジにとっては、もっとも身近な、親しいパートナーとしてアスカ(一部、綾波を取り込んで)が選ばれた。しかし、パートナーというものは、距離が近いだけに、もっとも傷付け合う人間でもあり、だからこそ「もう一度みんなに会いたいと思った」と言いながらも、首に手をかけて絞殺の手前まで行くが、そんな彼に対して、アスカは奇妙な労りで彼の腕をさすり「許し」を与える一方で、また「気持ち悪い」と「断罪」もする。

コニュニケーションの「痛さ」を象徴とするラスト。


で、エヴァンゲリオン旧劇場版の公開から20年、インターネットの普及で、人類は、より国境を意識せず、コスモポリタンな視点を持ち得るのかと思ったら、むしろ個々人はタコツボ化し、社会は分断してしまった。

「アイアムアヒーロー」でも、一つの生命体として合一を図りながらも、旧作の「エヴァンゲリオン」と同じで、主人公は、最終的には「個」として生きることになる。

しかし、「エヴァ」においては、主人公の「希望」としての「個」は、「アイアムアヒーロー」においては、パートナーからの拒絶&温情という処置によって、単に取り残されてしまっただけ。

さらに残酷なのは、そのような事情が裏側にあることを、鈴木は知らない。

同じく、偶然にしろ、嫉視の対象であった中田を救ったことや、その彼から、「神」的な扱いを受けていることからも、鈴木は排除されてしまっている。

そして、1人、文明の崩壊した都市で、孤独を強いられる。

誰に求められるわけでもなく、誰から承認されるわけでもなく、絶望的な世界で一人で、ただただタフに生きていくことだけが必要であり、そして、鈴木の逃避を肯定してくれた「矢島」が出てこないのは、最早、現実を受け入れてしまっている証左。

物語のラスト間際では311の地震にも見舞われるものの、やはり、鈴木は一人で、震災と向き合うしかない。

旧劇場版「エヴァンゲリオン」においては、まだ「パートナー」というものが求められていた。
しかし現在では最早、あらゆる現実は、「世界の理(ことわり)」などとは関係なく、他者など介在させず、ただただ一人で対峙すべきであり、それこそが作者が望む「ヒーロー」なのだろうが、まぁなんつーか、近代が生んだ「寂しさ」は、もうここまで到達してしまったんだね・・・・・・。


2017年5月28日日曜日

映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」


心臓病を患いながらも、仕事を探さなくてはいけなくなったダニエル。
ひょんなことから(←便利な言葉)、シングルマザーのケイティと知り合い、彼女と親しくなる。
必死に生きようとする二人の日常を通して、(イギリス)社会の福祉の欠陥が暴かれていく・・・・・。


直前に見た映画が「ムーンライト」でした。

そんなに複雑ではない筋立てでしたが、大胆な三章構成、それと連関して三色のフィルターによって色分けされたポスター、カメラワークの不安定さで主人公の不安定な心理状態を表現し、実験的に音楽を使い、・・・・・・まぁ、なんつーか、物語自体はシンプルだけど「ほれほれ、解釈しなはれ」と言わんばかりのクリエイターの思惑がグイグイと前乗りでやってくるような映画でした。

だからこそ、アカデミー賞を取れたのでしょうけど。


で、「わたしは、ダニエル・ブレイク」。

「ムーンライト」では、冒頭からグルグルと回る映像に酔いそうになりましたが、こちらは、どっしりと構えた絵。
癖はあるけど、情に厚いという共感度の高い主人公と、それを裏付ける役者の演技。
一本筋の通った物語。

殊更にまどろっこしい手法などはなくとも、シンプルであるからこそ、製作者の主張が直球で伝わるわけで。(別に「ムーンライト」が悪い作品というわけではないけど)

エンドロールも、昨今では珍しいくらいに短く、「映画の本質」というか、「物語の本質」とは何かを感じさせてくれる作品でした。


・・・・・しかし、国家の酷薄な福祉政策を指弾する映画なのに、「文部科学省特別選定作品」というのは、なんつーか、「いいの?」と思わないでも。

「あれはイギリスの話で、日本は関係ねーし」ということなのでしょうか・・・・・。


追記

加計学園問題が大きくなる直前に、前川喜平前文科次官の出会い系バー通いが暴露され、安倍さん嫌いの人は、「こんな姑息な手段を使いやがって」と、より安倍さんを嫌いになり、安倍さん好きの人は、「ほーれ、出会い系バーなんかに通うような人間なんて、たかが知れている」と、より安倍さんのアレなところを意図的に見落とすという、大変心温まる展開になっており、さすが「昭和の妖怪」と呼ばれた男のお孫さん、こりゃ、「平成の妖怪」になりつつあるのか? などと思ってしまいますが、その前文科次官が出会い系バーに通った理由が貧困調査と主張しているわけで、「わたしは、ダニエル・ブレイク」を文科省が推すのも一応筋が通っているね。

I, Daniel Blake
by カエレバ

2017年5月27日土曜日

映画「ムーンライト」



「ラ・ラ・ランド」との作品賞一騎打ちに勝ち残った「ムーンライト」。近所で公開されたので、見てきました。

昨年度のアカデミー賞が人種的な偏りがあると批判され、さらに今年はトランプ大統領の治世下という、いろいろと微妙な要因があって、「黒人」で、かつ「ゲイ」という、二重のマイノリティを扱った本作が勝ち得たのではないか? などとも分析されていましたが・・・・・、うーん、「あるかもね」というのが、正直な感想。

「ラ・ラ・ランド」なんかは、オープニングからして「楽しい映画ですよ~」という高揚感が画面から大いにあふれていましたが、こっちは、絶えずパトカーのサイレンが鳴っている住宅地でのヤクの売人の日常からという心躍るスタート。

以降も、「ほっこり」「にっこり」エピソードは皆無。

「タフでなければ生きていけない。 優しくなれなければ生きている資格がない」とは、フィリップ・マーロウの名言ですが、つっぱることが男の、たった一つの勲章というタフな黒人男性社会が、映画の舞台。
そんな中で、ほっそりとした気弱な黒人男性が主人公。

で、彼の幼年期、少年期、青年期が、それぞれ描かれています。


「芸術的」とか「作家性の強い」作品にありがちなことですが、けっこう淡々と進むんだよね。
の割には、過剰な説明を排して、作品から「送ってもらう」というよりも、受け手が「お迎えに行く」必要が多かったりします。

今作「ムーンライト」にしても、ヤクの売人は、なんであんなに親切なんだろうね?
もちろん、母子家庭の主人公にしてみると、売人が父親的役割を担っているのは分かるし、それは逆に、売人からすると主人公は息子的な立ち位置。

でも、タフに生きているはずの売人が、ゲイかもしれない子供に、あそこまで理解ある態度を示すのは、なんか不自然に思えてしまう。
そこに理由が見つけられないんだよね。

まぁ、推測するに、「どう生きるかを決めるのは 自分自身」と主人公にアドバイスを送っているのは、逆に言えば、「この子は、自分の人生の決定権を握ることはないのではないか?」という危惧であり、それはヤクの売人などという仕事に就いている自らへの悔悟であり、そして、主人公に、自分の過去を重ね合わせてしまい、そうはなって欲しくはないという希望からの、愛情だったのかな?

で、その希望はかなえられることはなく、むしろ最悪な形で裏切られるわけで、むしろ、彼の危惧は的確であったという皮肉が、「青年期」になってあらわになる。

かつては気弱だった子供は、自分を守る為にタフな男に変貌しているのだが、まぁ最終的には、過去の優しを取り戻してハッピーエンド、ということなんだが・・・・・・。


ちょっとネタバレだけど、旧友がレストランにて音楽をかけるシーンは、もう告白しているようなものなのだが、それからも、なかなか距離が縮まらないんだよね。

「おいおい、なんだよ、童貞かよ?」と思ってしまうけど、・・・・・体格はいかついものの、結局、彼の根っこは、かつての繊細な神経のまま。
童貞みたいなもの。

ラストのセリフだって、「男と男」のカップルだから、一見新鮮に思えるけど、これって、「男の女」に置き換えれば、派手好きなギャル系の女性が、「あんたに処女を捧げてから、他の男とは寝てない。ずっと操を守ってきた」と言っているようなもんだよなー。

そして、相手の男からの連絡だって、言うなれば、「クソメール」だよな。(google検索「クソメール」)
「今はパートナーがいねーし、なんか物寂しいし、ムラムラもするから、昔の女でも呼び出して、イッパツやらせてもらうか」っていう発想と大差ないよな。

格調高く描かれているので、騙されてしまうけど。


まぁ、かつては「男と女」という設定でなければ成立しなかった物語も、今では「男と男」でも、こうして十分に成立するわけで、そういう意味において、アカデミー賞作品賞受賞というのは象徴的ですな。

ムーンライト
by カエレバ