「バードマン」見てきました。
パーマンは出てこないのね・・・・・・・という、お約束は、さておき。
見応えのある、けったいな作品だった。
かつて、ヒーロー映画に出ていた人気を博していた主人公が、栄光を取り戻すべく、小劇場での公演に賭ける、というお話。
そう書いてしまうと、「あぁ、まぁ、ありがちな物語ね」なんだけど、・・・・・・見せ方が凝ってる。
登場人物の性格も過剰。
「これ、どこに落着するんだろう?」と心配になるような展開の連続だったけど、最終的には、落ち着くところに落ち着きました。
で、まぁ、ネタバレ。
登場人物のほとんどが、自分以外の自分になろうと望んでいるんだよね。
主人公が、その最たるもので、どうにかして、「バードマン」以外になろうと奮闘している。
ヤク中の娘、主人公の今の恋人(母になりたい)、同じ劇に立つ女優(女優として大成したい)、・・・・彼女たちも、今の自分を受け入れることができないでいる。
はっきりと、彼らと違うキャラとして描かれているのは、主人公の別れた妻。
彼女だけが、どっしりと落ち着いている。(もがき苦しむ主人公の彼と別れたからこそ、落ち着いていられるのだろうけど)
もう、一人、彼らとは対極のキャラとして存在するのが、エドワード・ノートンが演じる、ブロードウェイの有名俳優。
彼は、映画には縁が無い(興味がない)けど、演劇界では実力者として知られている。
が、彼の場合は、現実と舞台が、すっかり逆転している。
もはや、舞台の上でなければ、生きている実感を覚えないタイプ。
舞台上で酒を飲み、本番のセックスをしようとし、(演技の)自殺で使う銃は本物でなければいけない主張する。
・・・・・・・・・これはこれで、病んでいるわけだ。
主人公が映画の中の「バードマン」という存在になり切れなかったのと違い、エドワード・ノートンが演じる彼は、むしろ、役になりきり過ぎてしまう。
で、主人公は、最終的には、バードマンに乗っ取られてしまう。
つまり、役になり切ることになる。
これはこれで、好演として観衆を満足させるんだけど、最終的には、演技の自殺ではなく、実弾でもって自らの頭を打ち抜くという、本当の自殺をやってのけてしまう。
が、どうにか顔に傷が残る程度で助かる。
一旦、本気の「自殺」をすることで、彼の中に生きていたバードマンと別れることに成功。
過去と決別することで、娘とは和解できたようだけど、さて、彼は、これから、どうなるのでしょう? という終わりでした。
「なんじゃこりゃ」という圧倒的にうるさい映画なので、見るのは大変ですが、最初に述べたように見応えはありました。
おまけの疑問。
主人公とエドワード・ノートンの、それぞれの恋人が、レズ関係になると思しきシーンがあるんだよね。
あれ、必要?
なんか不思議なシーンでした。
その後のストーリーにも影響がないし。
強いて言うと、主人公にしろ、エドワード・ノートンにしろ、男の世界に生きる人間であり、その男性論理に付き合いきれなくなった女性たち、というのを暗示しているのかな?
BIRDMAN | ||||
|
0 件のコメント:
コメントを投稿