NHK連続テレビ小説「まれ」。
うーむ。
現代を舞台にすると、なかなか、うまくいかないね・・・・・。
最近で成功したのは、「あまちゃん」くらいかな?
(だから、「まれ」にしても、「あまちゃん」を見習っているところがあるんだろうな)
一人の女性の現代社会における自立や成長を描く・・・・・となると、朝ドラという制約下において、やれることは限られてしまうわけで。
たとえば、職場でのいじめ、いびりは描けても、セクハラとかは難しくなる。
異性愛は当然OKだけど、不倫や浮気はNG。
もちろん、同性愛なんか無理なわけで。
その点、時代を明治、大正、昭和初期とすれば、時代の激動と絡めることが容易になる。
まして、当時の女性の置かれた状況は、現代から見れば、それだけでいろいろと制約があるわけ(過酷)でして。
自然と、障害が配置されていて、物語としては成り立ちやすい。
で、「まれ」。
なんか無理が見えるドラマだね・・・・。(強引に障害をつくっているように見えてしまう)
今週は、主人公・土屋太鳳さんが演じるところの「まれ」の弟・一徹が、実は友人の「みのり」と付き合っており、結婚したいと言い出すことからの大騒動。
どちらとも未成年。
しかも、一徹は、まだ高校生。(正式に結婚するのは、卒業後なのだろうが)
当然、周囲から反対される。
それに対して、主人公の「まれ」は、彼らを応援することを決意・・・・・・・。
まぁ、普通に考えれば、反対する方が、当たり前。
せいぜい、「両方共、二十歳を超えてから、考えたら?」とアドバイスするのが、普通でしょうね。
でも、二人共、今直ぐに結婚したい! と言い張る。
その理由が、「みのり」のお母さんが若いころ、子供を流産している。
そのことから、娘が「早く結婚して、子沢山で、大家族を築くぞ!」と決意したから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、その娘の話を聞いて、ドランクドラゴンの塚地さんが、娘の決意を知り、泣きながら結婚を認める。
うーむ。
旦那は、高校卒業したら、いきなりデイトレーダーになろうとしているんだよ?
そんな、海の物とも山の物ともつかない仕事に就くのに(しかも、高校卒業して、直ぐに! 証券会社や金融関係の仕事をしたことがないのはもちろん、社会経験なんか皆無なのに)、「子供が沢山欲しいから結婚したい!」なんて言う娘の結婚を認めるなんて。
収入ゼロ(ヘタすれば、マイナス)かもしれない可能性だってあるのに、子供だけは欲しい?
・・・・・・なんじゃそりゃ!?
今回のドラマは、週一回は泣き所をつくろうとして、もう、なんか、強引過ぎる。
子煩悩という設定の「まれ」のお父さんが、六年間、電話の一つも寄越さないで、東京で働いていた、とか。
その割には、妻の実母(妻は彼女のことは大嫌い)とは連絡を取り合っていた、とか。
「まれ」一家が住んでいるのは、かつて民宿を営んでいた建物。
そこに家主の桶作夫婦と一緒に住んでいるんだけど、実の息子が家族を引き連れて帰ってきて。
で、いきなり、ここでカフェを開くから、親父のやっている塩田つぶす、とか言い出す。
それに対して、「どこか空き家を借りたら?」という提案に対して、「それじゃ、金がかかる」。
うーむ。
そんなわけねーじゃん。
塩田潰して、新しい施設をつくるってなったら、どんだけ金がかかるんだよ。
駐車場にするにしても(それなりに金がかかるよ)、・・・・・・・流行る前から、流行ること前提で金を投資するって、・・・・・あんたねー。(どこにあるの、そんな金?)
観光客目当てのカフェをつくるのなら、むしろ、塩田を残して、それを目玉にする方が、妥当だろうに。
「そりゃ、リストラされた後に、仕事も見つからないわけだよ」という感じの息子が、どうしてカフェを諦めたかというと、クイズで負けたから・・・・。
まぁ、そういうコミカルな要素を入れるのも、良かろう。
でも、負けたら、清々しく、「もう一度、東京で、仕事を探してみる」とか言って、ハッピーエンド。
・・・・・・・おいおい、切羽詰まって、実家に戻ってきたんじゃないのかい? そんな程度の覚悟で、都会の生活に慣れた家族を引き連れて、実家で仕事をしようと思ってたの?(しかもカフェを経営した経験があるわけでもなく)
他にも、六角精児さんが、地元の職人をたぶらかすところも、なんだかなー。
そんな簡単に職人が引き抜かれるってことは、「まれ」が密かに恋している紺谷圭太のジイさんである紺谷弥太郎(漆職人の元締め)は、余程ひどい待遇で職人を雇っていたんだろうなぁ、と思ってしまうよ。
とにかく、毎週、お涙頂戴のシーンをつくろうとして、無理しているのが、このドラマ。
ストーリーの流れよりも、そこを求める人には、いいのかもしれないけど。
まぁ絵は素晴らしいんだけどね。
能登の四季を色鮮やかにとらえて、毎週出てくるお菓子(スイーツ)も瑞々しい。
出演者にしても、適材適所という感じ。
土屋太鳳さんも、かわいらしい。
ただ、出演者に涙を流させて、大声出し、バックで扇情的な音楽をバンバン流すという、「これでいいんだろ?」という製作者の意図が見え見えで、個人的には白けてしまうね・・・・・・。(「嫌なら見るな」というのなら、その通りではあるんだけど)
放映が始まった当初から、「オープニングが、恥ずいな」と思っていたんだけど、その印象のままのドラマね。
土屋太鳳さんが踊るシーンと、能登の風景、スイーツの製作過程をコントラスト豊かに描いていて、「綺麗」ではある。
でも、土屋太鳳さんが着ている服が白のワンピース。
で、その姿で、能登の田舎を、周辺の住民の人に手を振りながら走り回り、最終的には彼女の元に人々が集まってくる・・・・・。
いかにもNHKの朝ドラ的、健康美人(美少女)で、素直な性格、誰からも愛されています! という感じが、オープニングから臭っていたけど、実際のドラマも、ここまでとは。
うーむ。
これが好きな人も一定層はいるのだろうから、間違ってはいないのだろうけど。
それにしても、脚本が穴だらけで、大甘だな・・・・・。
まぁ、パティシエを目指す物語なのだから、大甘でもいいのかもしれないが。(オッサン大好き、ダジャレオチ)
2015年5月30日土曜日
2015年5月28日木曜日
原作:久住昌之 画:土山しげる「漫画版 野武士のグルメ」
なんとなく手にした「野武士のグルメ」。
まぁ、簡単に言うと、コラで大人気の「孤独のグルメ」なんですが。(原作者も同じだしね)
不思議なマンガです。(「孤独」も「野武士」も、どちらとも)
大げさな事件もなく、グルメマンガでありながら、出てくるのは、普通の食事ばかり。
「なんてこった!」という大どんでん返しなオチもなく、「人生のちょっとした出来事を切り取りました」という感じ。
で、ミソとしては、「野武士のグルメ」というタイトルになっているけど、実は「野武士のグルメ」となっていない。
(「孤独のグルメ」はタイトル通り、主人公は、いつも一人でした)
主人公の香住武は、長く勤めた会社を定年退職したばかり。
どうやら、あまり出世はしなかった模様。
でも、ちゃんと結婚して、子供も自立している(ようだ)。健康には不安はないし、持ち家も構えている(借家かもしれないが、まぁ、定年後も家賃を気にする必要がないようだ)。
贅沢できるほどのお金はないけど、定年後も働かなくてはいけないこともなく、ふらっと思い付きで外食が出来るくらいの余裕はある。
そんな切迫感皆無の悠々自適な生活を送る彼ではあるけれども、・・・・・と言うよりは、悠々自適な生活を送る彼だからこそ、少々、物足りなさを感じる。
で、「野武士のように、荒々しく飯を食いたい!」という願望が生まれるのですが・・・・。
「野武士」と言えば、本来、無職。
仕官がかなわず、日々、食うや食わずが当たり前。
どうしたって、生活に余裕のある主人公が、野武士になれるわけもなく。
いくつかの短編で構成されたマンガですが、その殆どにおいて、主人公は野武士のように豪快に飯を喰らいたい! と思っても、そうはいかない現実を突きつけられます。
結局、この「野武士」っていうのは、主人公の若かりし頃の姿なんだよね。
(野武士が出てこないで、過去の回想で終わることもあるけど、それにしても「過去」つまりは、「若かりし頃」について語っているんだよね)
今はもう失ってしまった、あの当時の若々しさを、「まだ持っていると思いたい!」「もう一度感じたい!」という願いが、破綻して終わる。
破綻という表現は少々大げさですが・・・・。
でも、「あぁ、野武士のようにはいかないなぁ」(もう若くないな~)という微妙なペーソスが、仰々しくはなく、ほんわかに描かれているところが、この本の魅力なのかな。
| 漫画版 野武士のグルメ | ||||
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2015年5月27日水曜日
「現代小説クロニクル(1975~1979)」
以前、「戦後短篇小説再発見」というシリーズがあって(まだ売っていると思いますが)、普段手にしないような作家の作品に触れられて、大変面白かったです。
こんなタイプが、また出ないかな? と思っていたら、「現代小説クロニクル」というシリーズを見つけて、読んでみました。
この巻に関しては、半分くらい読んだことがあるんですが、しかし、どれも面白かったので、それは気にならなったのですが、値段が二千円近い。
文庫にしては、ちょっと高いですな。
で、肝心の作品の感想ですが・・・・・、冒頭の中上健次が、やっぱり圧倒的です。
作品を、純文学と大衆小説(通俗小説、エンターテイメント小説)で分類するなんて、ナンセンスだけど、「岬」を読むと、やっぱり「純文学だね~」と感じてしまう。
複雑な血縁関係について、まったく分かり易く解説する気がないものね。
時折、ちょっとした回想シーンが挿入されるんだけど、それも、同じような内容ばっかりでね。
繰り返し語られるんだけど、切り口が変わるとか、前とは違った表現が使われるとか、そういう読者へのサービスとか、変わったことをしてやろうという気負いとかないんだよ。
でも、複雑な係累にしても、印象的なエピソードにしても、何度も何度も語られることで、「血の宿命」(陳腐な表現)というものを、読者までもが感じてしまうんだよね。
これが意図したものなのか、偶然なのか。
いずれにせよ、他人に真似できるものではなく、天才的と言うしかない。
久しぶりに「枯木灘」が読みたくなるが・・・・・、アレを読み通すのは、骨でね~。
他には、「僕って何」も面白かった。
最初に読んだのが十代だから、もう二十年前か・・・・・。
若い頃、三田誠広さんは、よく読んでいいたんだけど、やっぱ、これが一番かな。
学園紛争を舞台にして、未成熟な主人公が、学生運動には何かあるのではないかと期待をして近づく。
理論武装した学生たちと出会い、「彼らは何かを持っているのではないか?」という期待を抱く。
が、結局は、彼らも狭い組織の論理で動いているに過ぎず、幻想に過ぎなかったと失望していく過程が、今読んでも鮮やかです。
他は短編ばかり。
中には、(僕の)肌に合わない作品もありますが、そういう出会いが出来るのも、アンソロジーだからねー。それは、それで意味があります。
| 現代小説クロニクル 1975~1979 (講談社文芸文庫) | ||||
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2015年5月26日火曜日
ニール・ブロムカンプ監督「チャッピー」の感想
「チャッピー」見てきました。
異様な映画でした。
こういう看板を見ていたので、「ベイマックスみたいな、ほのぼの映画かな?」と思ってました。
(■「ベイマックス」を見て、ソツがないねーと感心しきり)
「心を持ったロボットと人間の、心あたたまる交流」という、日本ならド定番のお話を予想していたのですが・・・・・・。
心あたたまるシーンなんか、皆無だったよ。
以下、ネタバレ。
先ず、登場人物に、まったく感情移入ができないんだよ。
チャッピーの生みの親にしても、マッドサイエンティストならぬ、マッドエンジニアだし。
チャッピーがギャングに奪われた時点で、警察に連絡しろよ・・・・・。
なんで連絡しなかったのかというと、勝手にロボットへAIをインストールしたことを咎められることを恐れたからなのだろう。・・・・・結局、利己的。
その同僚のライバルも、警察に納入させようとしているロボットに、クラスター爆弾を装備させるようなおバカ。
もちろん、チャッピーを保護下に置いたギャングにしても、いい人なんかいるはずもなく。
唯一、チャッピーにとって母親となったギャングのヨランディが、ちょっとだけ、いい人だったけど。
(彼女は彼女で、後数日で殺されるというのに、えらくのんきね・・・・)
ただ、製作者としての主眼が、「チャッピーに共感を持たせたい」ということなのだろうから、敢えて、登場人物は癖のある人をそろえたんだろうな・・・・。
で、このチャッピーが、中盤までは、とにかくかわいそうで。
図体こそは、成人男性と同じくらいだけど、頭脳は生まれたばかりのお子様。
なのに、方々から、いじめられまくる。(異質な存在だから)
しまいにゃ、火をつけられて、腕を切り落とされたりする。
「ロボットは機械だ、心などないと言う人もいるけれども、実際には、心のない人間だっているじゃないか!」という流れか? と思ったら、途中からチャッピーがグレちゃって。
自分の命の為とは言え、犯罪にも加担するようになるし。
(ロボットに心を持たせたら、良くなるとは限らないじゃん? というのは、真っ当な考えかもしれませんが)
どこ行こうとしている、この映画? と不安になったけど、チャッピーの死が間近に迫ってきて、「あぁ、最終的には、人工知能が死を逍遥として受け入れる(悟りを手に入れる)」という荘厳なシーンで終わるのか? と思っていたら、彼をつくってくれた人(創造主)が銃で打たれる。
創造主を助けるか、自分を助けるかの二者択一となり、チャッピーは彼を選ぶ・・・・・。
「ロボットの自己犠牲パターンか。ターミネーター2だな」
と思ったら、最終的には、チャッピーも助かる。
後、ついでに、母親となってくれたギャングの女も助かる。
こう書くと、ありがちな大団円なんだけど、ギャングの女にしてもチャッピーの創造主にしても、ロボットとして生まれ変わるんだよ。(意識を移植)
「なんだこの、ハッピーエンドでも、バッドエンドでもない、もやもやした終わりは。いいのか、これで?」
そもそも、創造主に関しては、急いで病院に連れて行ったら、助かったような・・・・・。
(まぁチャッピーは賢いと言ってもロボット。だから、肉体は交換可能なものだと思っている。彼を助ける為に病院という選択肢は浮かばず、意識を移植してしまえばいいじゃん! という考えになるは当然かもしれないが)
なんか、「どう解釈したものか?」と悩むようなラストでした。
創造主やチャッピーにとっての母を、ロボットして蘇らせるというのは、つまり、「永遠の命」を与えるということ。
この、「永遠の命」を与えるってのは、本来、神にしか許されていない行為なのでは?
チャッピーというのは、劇中では、「黒い羊」ではあるけど、特別な存在であると言われている。これは、彼が「神」、ないし「神の子」であると示唆しているのか?
でも、創造主(神)を、創造されたものが蘇らせる(新しいステージに引き上げる)という、なんだ、この歪んだ構造は。
この意味するものって、なんなのかな?
そんな複雑に考えないで、この映画って、チャッピーが一人前になる物語とするべきなのか?
子供が成長して、親を凌駕することを示すために、最終的には、肉体をつくってくれた創造主(父)と、精神をつくってくれた母に、恩返しをした、というだけなのかも。
いずれにせよ、物語の「お約束」を破ろうという意欲に満ちた作品でした。
(それが成功しているかどうかは、見た人に依ると思いますが)
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2015年5月25日月曜日
0120-951-909 男性募集
田舎町に住んでいるのですが、そこで発見したポスター。
ちょっと探してみたら、町中に、三枚発見。もう剥がされたもの、見つけてないものもあるでしょうから、けっこう頑張っている御様子。
この電話番号で、検索をかけますと、
■0120-951-909(google 検索結果が表示されます。)
やっぱり、
そもそもツッコミどころが満載で、社名がないんだよね。
もしかして、これが社名?
うーむ。意味が分からん。
まぁ先方の事情を想像するに、いろんなサイトで、いろんな名前を使っている。
だから、電話を受けた際に、先方から社名を言うことが出来ないから、敢えて書いてないのだろうなぁ・・・・。
募集条件。
迷惑メールに、よくあるパターン。
「逆援助交際をしてみませんか?」「女性起業家が、割り切りのできる大人の男性を探しています」というヤツ。
電話して、登録をすると、「登録料がかかります」「紹介料がかかります」「セレブな女性を紹介する上で、保証金が必要です」と言って、お金をとられるパターンでしょうね。
ちょっとだけ感心した(?)のが、この文言。
これを入れることで、剥がし難くしているんでしょう。
ネットではお約束で、使い古された内容なのですが、それが、現実世界に下りてきたところが、「おぉ、ネットが染み出ている!」と驚きです。(押井守監督「イノセンス」にて、草薙素子が降臨した感じ・・・・・・ではないな)
しかし、どんな人が貼っているんだろう?
うちのような田舎に、本部があるのかな?
なんか、考え難い。
アウトソーシング? ネットで募集して、一枚100円とかで貼らせている、とか。(ちゃんと貼ったかどうかは、写真を送ってもらう)
なんとなく思ったのは、もしかしたら、メールで引っかかった人が、「これが最初の仕事」と言われて、貼っているんじゃないか? と。
ネットが飽和状態(なかなかカモが見つからない)で、ネットに疎い層(中高年)を狙い打ちにしようとしているのかなー。
ただ、普通に考えれば、仕事の募集に応じて、お金をとられるなんて思わないから、簡単に電話しちゃう人もいるのか?
しかし、この手のやり方って、内職商法と同じなわけで、古い手を言えば、古い手。
それが、ネットの普及で、掲示板とかメールを使った出会い系詐欺になったんだけども、また現実に戻ってきているんですな。
うーん、不毛な輪廻転生、永劫回帰。
2015年5月20日水曜日
文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」外伝の感想
ポッドキャストで配信されている文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」の外伝を聞き終えて。
本編の感想。
■文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」本編の感想
いまいち、僕の中で、はっきりとした像とならないのが、「キラキラ系」というお言葉。
「意識高い系」というのは、意識は高いけど(やる気はあるけど)、口だけ、努力が空回りしている、または努力していない・・・・・ということなんだと思う。
でも、「キラキラ系」というのは、(プロ雀士の)勝間和代さんではないよね?(そもそも、カツマーも、よく分からないけど)
ニュアンスからすると、努力しているけど、外見だけ繕っている、ということ?
本編では、代表的な例としては、キラキラ広報を挙げていた。
■「キラキラ広報は駆逐すべき」という議論がおもしろいw
会社や業務を広報するのではなく、「自分自身が広告塔になっている人」ということですかね?
この「キラキラ系」を、ライフクルーによって批判したり、評価したりと微妙に違っていて、・・・・・よく分からん。
そういうタイプが、身近にいないからな~。
それは、さて置き。
面白かったのは、女性と男性の物差しについて。
女性の場合は自らが望んだ道(専業主婦でも、バリキャリでも)で成功すればOK。
けっこう、いろんな人生の形がある。
でも、男性の場合は、意外とないよね、というお話。
もちろん、この社会においては、まだまだ女性の方が弱い立場ではあるんだけれども。
でも、女性の社会進出が認められるようになった結果として、旧来の形もあれば新しい形もある。(また、今時は、バリバリ働きながら、ちゃんとした伴侶も得て、子供もばっちり育てます! という女性もいる)
過渡期だからこその、ある意味では豊穣な生き方が存在する。
でも、男の場合は、専業主夫というのは、やっぱり、そうそう有り得ない。(そもそも専業主婦が難しくなっている昨今、専業主夫は、まして)
荻上チキさんかな?
「女性を解放するというのは、男性を解放するのと同じ」と言っていたような気がするけど。
「女性らしさ」というものが無くすということは、つまりは「男性らしさ」(例えば「男が家で家事をやるなんて、おかしい!」てな考え方)というものからの解放でもあるんだねー。
とは言っても、(陳腐かもしれないけれども)男性は尺度がしっかりしている。(または既存の尺度が有効に存在している)
でも、女性の方は、いまいちはっきりしないよね、という指摘も。
そこから、キラキラ系というものが生まれてくるのかな?
(勝手なイメージとしては、Facebookで「いいね」を集めることを基準にする生き方?)
で、「キラキラ系(笑)」という面がありつつも、この手は、自分勝手に人生を切り開いていくポジティブを持ち合わせている。
ある意味、安心。
それよりも困るのは、「モヤモヤ女子」。
積極的になれない。
でも、もう、そんなことは言ってられないよね。
(ネガティブなり、後ろ向きでは、この社会を渡っていくのは難しい)
または、そういう人をも巻き込んでいくことが、必要だよ。
という感じで、今回は、まとまりました。
本編でも思ったことだけど、なるほど、ネガティブは金持ちの道楽になりつつあるのね・・・・・。
本編の感想。
■文化系トークラジオ Life「ポジティブの現在/ネガティブの未来」本編の感想
いまいち、僕の中で、はっきりとした像とならないのが、「キラキラ系」というお言葉。
「意識高い系」というのは、意識は高いけど(やる気はあるけど)、口だけ、努力が空回りしている、または努力していない・・・・・ということなんだと思う。
でも、「キラキラ系」というのは、(プロ雀士の)勝間和代さんではないよね?(そもそも、カツマーも、よく分からないけど)
ニュアンスからすると、努力しているけど、外見だけ繕っている、ということ?
本編では、代表的な例としては、キラキラ広報を挙げていた。
■「キラキラ広報は駆逐すべき」という議論がおもしろいw
会社や業務を広報するのではなく、「自分自身が広告塔になっている人」ということですかね?
この「キラキラ系」を、ライフクルーによって批判したり、評価したりと微妙に違っていて、・・・・・よく分からん。
そういうタイプが、身近にいないからな~。
それは、さて置き。
面白かったのは、女性と男性の物差しについて。
女性の場合は自らが望んだ道(専業主婦でも、バリキャリでも)で成功すればOK。
けっこう、いろんな人生の形がある。
でも、男性の場合は、意外とないよね、というお話。
もちろん、この社会においては、まだまだ女性の方が弱い立場ではあるんだけれども。
でも、女性の社会進出が認められるようになった結果として、旧来の形もあれば新しい形もある。(また、今時は、バリバリ働きながら、ちゃんとした伴侶も得て、子供もばっちり育てます! という女性もいる)
過渡期だからこその、ある意味では豊穣な生き方が存在する。
でも、男の場合は、専業主夫というのは、やっぱり、そうそう有り得ない。(そもそも専業主婦が難しくなっている昨今、専業主夫は、まして)
荻上チキさんかな?
「女性を解放するというのは、男性を解放するのと同じ」と言っていたような気がするけど。
「女性らしさ」というものが無くすということは、つまりは「男性らしさ」(例えば「男が家で家事をやるなんて、おかしい!」てな考え方)というものからの解放でもあるんだねー。
とは言っても、(陳腐かもしれないけれども)男性は尺度がしっかりしている。(または既存の尺度が有効に存在している)
でも、女性の方は、いまいちはっきりしないよね、という指摘も。
そこから、キラキラ系というものが生まれてくるのかな?
(勝手なイメージとしては、Facebookで「いいね」を集めることを基準にする生き方?)
で、「キラキラ系(笑)」という面がありつつも、この手は、自分勝手に人生を切り開いていくポジティブを持ち合わせている。
ある意味、安心。
それよりも困るのは、「モヤモヤ女子」。
積極的になれない。
でも、もう、そんなことは言ってられないよね。
(ネガティブなり、後ろ向きでは、この社会を渡っていくのは難しい)
または、そういう人をも巻き込んでいくことが、必要だよ。
という感じで、今回は、まとまりました。
本編でも思ったことだけど、なるほど、ネガティブは金持ちの道楽になりつつあるのね・・・・・。
2015年5月19日火曜日
新川直司「四月は君の嘘 11」の感想
最終巻「四月は君の嘘」。
アニメも録画して見ておりました。
正直なところ、アニメの最終回間際が、ひどく、せわしないと感じて、「マンガ(原作)とは違うのかな?」と思ってました。
が、ようやく単行本化したマンガを読んだのですが・・・・・、アニメはマンガそのまんま。
原作を尊重した結果として、あぁなったのね。
ふーむ。
もうちょっと連載を伸ばすのかな? という予感がありましたが、けっこう、あっさり終わりましたね。
(かをりが亡くなるのは仕方ないにしても、傷心を引きずったままの第二部高校編や青年編があるのかな? と、ちょっと思ってた)
いろんな理由があって連載を引き伸ばし、結果、「最後はアレだったね」というマンガも多いので、ほどよい終わりだったと思います。(それでも、相座凪のエピソードは、連載を伸ばそうとした結果のようにも感じますが)
ただ、最後のネタばらしが・・・・・・。
僕は、てっきり、ヒロインの宮園かをりは、転校生という設定だと思ってた。
中学一年から同じ学校に通っているのに、三年になって、突然知り合うって、ちょいっと無理があるよね。
「もう自分に残された時間は短い」と覚悟しているのが、宮園かをりの行動原理なわけで。
すると、どうしても「学校には、ほとんど来ていない(かなり、あぶない病状)」という設定にする必要がある。
だから、最後の手紙での、「ほとんど中学に行けなかったな」という告白につながるのは分かる。
でも、三年になって顔見知りになり、それから、突然学校に来なくなった「かをり」に対して、登場人物たちは、あまりにも情報収集がお粗末だな・・・・。
一、二年で彼女と同じクラスに所属していた生徒に聞けば、ほとんど登校出来ていない過去を知るのは、容易。
とすれば、かなりの病気を患っているということは、直ぐに推測できる訳でして。
まして、有馬公生は、かをりに惚れているっていうのに、彼女のことを、まったく知ろうともしないって、あんたねー。
まぁ、物語を盛り上げる為に仕方ないとは思いつつも、「かをりの病状が悪化して、専門病院の近くの中学校に転校してきたら、そこに憧れていた有馬公生がいた」という設定の方が、無難な気がするけど・・・・・・。
もう一つ納得できなったのは、主人公・有馬公生の日常。
母が死んだのは、いいとしよう。(と言うか、物語の根幹)
でも、「父」は、どうした?
確か、船乗りという設定で、有馬公生が「放任主義ですから」みたいなことを述べていたはずだが・・・・・・、おいおい。
母親が死んでショックを受けている(未成年の)息子を放おっておいて、海外で仕事って。
うーむ。
あまりにも無責任。
せめて、主人公が高校生というのであれば、「仕方ねーか」とも思えるけど。
中学生じゃねー。そりゃ、ちょっと無理がない?
(語られないだけで、頻繁に家に帰ってきているのかもしれないが)
いっそ、離婚しているという設定にしてしまうことも可能だったろうけど、すると、「母親が死んで、中学生が一人で暮らしている」というのでは、それは現実としては、ないわけで。
だから、父親はいることにしないといけない、けれども、主人公・有馬公生の孤独を際立たせる為には、存在感を極力消さなくてはいけない。(「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」でも、父親は、基本、影が薄かったね)
このジレンマの結果として、外(外国)に出たまま帰ってこないという設定になったのだろうが・・・・・・。
普通に考えたら、傷心の息子を、そこまで放任するというのは、なにか特別な理由があるのではないかと勘ぐってしまうよね。(子供が憎いとか、父は父で妻を亡くした傷を負っているとか)
まぁ、物語を盛り上げる、かつシンプルにする為の「嘘」というのは、分かるけどね。
ちょいっと気になってしまいました。
まぁそういう穴なんて、見つけようと思えば、いくらだって見つかるものです。
そこらへんは、フィクションですから、と多少割り切らないと。
むしろ、一巻を読み直してみたら、最終巻を読んだから分かる伏線が、しっかりと張ってあります。
連載の当初から、最終回を見据えて、いたんだなーと感心。
物語が短命で終わったり、冗長になりがちなマンガとしては、綺麗に終わっているのは見事。
実写にし易い内容だとは思うけど・・・・・・、さて、どうかな?
■新川直司「四月は君の嘘」を、1巻から5巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘」を、6巻から9巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘(10)」の感想
アニメも録画して見ておりました。
正直なところ、アニメの最終回間際が、ひどく、せわしないと感じて、「マンガ(原作)とは違うのかな?」と思ってました。
が、ようやく単行本化したマンガを読んだのですが・・・・・、アニメはマンガそのまんま。
原作を尊重した結果として、あぁなったのね。
ふーむ。
もうちょっと連載を伸ばすのかな? という予感がありましたが、けっこう、あっさり終わりましたね。
(かをりが亡くなるのは仕方ないにしても、傷心を引きずったままの第二部高校編や青年編があるのかな? と、ちょっと思ってた)
いろんな理由があって連載を引き伸ばし、結果、「最後はアレだったね」というマンガも多いので、ほどよい終わりだったと思います。(それでも、相座凪のエピソードは、連載を伸ばそうとした結果のようにも感じますが)
ただ、最後のネタばらしが・・・・・・。
僕は、てっきり、ヒロインの宮園かをりは、転校生という設定だと思ってた。
中学一年から同じ学校に通っているのに、三年になって、突然知り合うって、ちょいっと無理があるよね。
「もう自分に残された時間は短い」と覚悟しているのが、宮園かをりの行動原理なわけで。
すると、どうしても「学校には、ほとんど来ていない(かなり、あぶない病状)」という設定にする必要がある。
だから、最後の手紙での、「ほとんど中学に行けなかったな」という告白につながるのは分かる。
でも、三年になって顔見知りになり、それから、突然学校に来なくなった「かをり」に対して、登場人物たちは、あまりにも情報収集がお粗末だな・・・・。
一、二年で彼女と同じクラスに所属していた生徒に聞けば、ほとんど登校出来ていない過去を知るのは、容易。
とすれば、かなりの病気を患っているということは、直ぐに推測できる訳でして。
まして、有馬公生は、かをりに惚れているっていうのに、彼女のことを、まったく知ろうともしないって、あんたねー。
まぁ、物語を盛り上げる為に仕方ないとは思いつつも、「かをりの病状が悪化して、専門病院の近くの中学校に転校してきたら、そこに憧れていた有馬公生がいた」という設定の方が、無難な気がするけど・・・・・・。
もう一つ納得できなったのは、主人公・有馬公生の日常。
母が死んだのは、いいとしよう。(と言うか、物語の根幹)
でも、「父」は、どうした?
確か、船乗りという設定で、有馬公生が「放任主義ですから」みたいなことを述べていたはずだが・・・・・・、おいおい。
母親が死んでショックを受けている(未成年の)息子を放おっておいて、海外で仕事って。
うーむ。
あまりにも無責任。
せめて、主人公が高校生というのであれば、「仕方ねーか」とも思えるけど。
中学生じゃねー。そりゃ、ちょっと無理がない?
(語られないだけで、頻繁に家に帰ってきているのかもしれないが)
いっそ、離婚しているという設定にしてしまうことも可能だったろうけど、すると、「母親が死んで、中学生が一人で暮らしている」というのでは、それは現実としては、ないわけで。
だから、父親はいることにしないといけない、けれども、主人公・有馬公生の孤独を際立たせる為には、存在感を極力消さなくてはいけない。(「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」でも、父親は、基本、影が薄かったね)
このジレンマの結果として、外(外国)に出たまま帰ってこないという設定になったのだろうが・・・・・・。
普通に考えたら、傷心の息子を、そこまで放任するというのは、なにか特別な理由があるのではないかと勘ぐってしまうよね。(子供が憎いとか、父は父で妻を亡くした傷を負っているとか)
まぁ、物語を盛り上げる、かつシンプルにする為の「嘘」というのは、分かるけどね。
ちょいっと気になってしまいました。
まぁそういう穴なんて、見つけようと思えば、いくらだって見つかるものです。
そこらへんは、フィクションですから、と多少割り切らないと。
むしろ、一巻を読み直してみたら、最終巻を読んだから分かる伏線が、しっかりと張ってあります。
連載の当初から、最終回を見据えて、いたんだなーと感心。
物語が短命で終わったり、冗長になりがちなマンガとしては、綺麗に終わっているのは見事。
実写にし易い内容だとは思うけど・・・・・・、さて、どうかな?
■新川直司「四月は君の嘘」を、1巻から5巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘」を、6巻から9巻までの感想
■新川直司「四月は君の嘘(10)」の感想
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